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(`・ω・´).+゚.。oO(!!前 世 や ば い!!)

↓↓ こんなの書いてます ↓↓

The Origin of Def Fect(1)

ストリートダンス 栃木県ダンス連盟Def Fect
 こちらの記事は、以前にTwitterでアンケートを取りました「Def Fectに関わったこと」についての内容となります。
 栃木県内のストリートダンスサークル部員や周辺の大学生にむけての記事となります。また、そういった事項を知らない方でも読みやすいように書かせて頂きました。
 
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”Defcet 名詞:欠陥、欠点、弱点”
 
“Def Fect 名詞;栃木県学生ダンス連盟の名称。
(Def = かっこいい、素晴らしい・Fect = 影響を及ぼす、事象を発生させる。)
2つの意味を足した造語。
常に素晴らしい物事を生み出し、周りに波及されることの出来る団体になることを願って名付けられた。名付け親は、doocleのSである。                       
 
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 2010年に「組織」として正式発足した栃木県学生ダンス連盟”Def Fect”は、今年で7年目を迎えました。栃木県内に存在する大学のストリートダンスサークルが一丸となって活動し、他大学との交流やイベント開催などを実施しています。
 発足当時は80名弱ほどの人数でしたが、各大学サークルの人数の増加に伴って、現在ではさらに大きな団体となりました。
 

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(Def Fect発足当時のロゴ:mixiのコミニティロゴから引用)
 
 宇都宮大学「doocle」・白鴎大学「EXA」・国際医療福祉大学「I.D.C」…栃木県内に存在する大きなストリートダンスサークルが中心となっていますが、自治医科大学MORL、獨協医科大学、また、栃木県内のストリートダンサーも入り混じり、日々、進化し続ける団体となっています。
 
 活動内容も年を重ねるごとに多岐にわたり、群馬県大学生ダンス連盟Make a Chinとの合同イベントの開催や茨城県の大学生との交流イベントなど北関東を中心に様々なイベントで活躍しています。
 
 今から書いていくお話は…「Def Fect」が出来上がる前の話。そして、どうなって出来上がっていったのか?という誕生秘話です。ただし、この記事の視点は、その当時の全員の話を集約したものではなく、Def Fectに関わった「じんべえ」という一人のダンサーからのものです。
 
 この記事を書くために、当時のSNSにあったブログや自分のノートの日記10年分を再度読み返しました。過去の資料に目を通すと恥ずかしいことばかりで、顔から火が出そうです。ただ、積み重ねていった時間は、現在の自分自身を構築しています。
 
 栃木県を離れて3年。今更、こんなことを書いてもしょうがないのかもしれません。
 ただ、今でも聞くDef fectの話や青森県や他地域の大学生との交流の中で「自分自身の経験がもしかしたら、参考になるかもしれない」と感じ、記事の投稿を決意しました。生粋のストリートダンサーから見れば、甘えだらけの経験だったかもしれません。しかし、多くの人々との関わり、たくさんの経験を出来たことは、自分の財産でもあります。
 
 今から書く話は、ただの”昔話”。
 
 現役の子たちには関係ない話かもしれません。しかし、この記事は、”大学生”の時にダンスと出会い、そして、たくさんのことを得た人間の体験談です。何かあなたのヒントになることが埋もれているかもしれません。”Defcet”だらけだった”じんべえ”が、”Def Fect”に関わった体験談です。もし、よければ、目を通してみてください。
 
 
 

謝辞―記事投稿に関して―

 今回の記事の投稿・作成に関して、最初に国際医療福祉大学OB・T、白鴎大学OB・Mに深く感謝致します。あなた方がいてくれたおかげで、私は楽しいダンサー生活、そして、たくさんの素晴らしい後輩たちに出会うことが出来ました。故郷に戻り、こうやって人生を送ることが出来るのもあなた方のおかげです。本当にありがとうございました。
 
 次に今まで”Def Fcet”を通して、私を成長させてくれたすべての後輩たち、同輩、そして先輩方に感謝致します。ありがとうございました。また、踊りあえる日を楽しみにしています。
 
 そして、これからのDef Fectの更なる発展と、現役の子たちがいつでも笑顔でダンスを出来ること、そして、未来へつながる多くの経験を出来るを願って、本文に入らせて頂きます。

 ここから書く話の名前に関しては、すべて本名・ダンサーネームのイニシャルとさせて頂きます。
 
 
 

1 Name the greatest of all inventors. Accident.

(最も素晴らしい発明家は、「偶然」である。)
 
 2009年10月31日。栃木県宇都宮市で最も大きなクラブ「BASQ」。
 その日は、ダンスイベント「Vanilla」が開催されていた。当時、現在のように”ハロウィン”という行事がまだメジャーになる前だったが、”催し”として仮装コンテストが実施され、イベントは仮装した一般客で溢れかえっていた。
 
 10月の末日ということで、学生ダンサーたちは、それぞれの大学の学祭に向けて、練習を重ねる時期だった。そのため、いつもよりも学生ダンサーの数は少なく、フロアで踊る人も少なかった。
 
 時間が流れ、仮装コンテストも終わり、South HipHopが流れ始めた頃、ショーケースの出演者控室では、着替えをする者、話に花を咲かせる者…ダンサーたちが疲れを癒しながら、イベントの余韻を楽しんでいた。深夜3:00を過ぎ、「もう明日のことを考えて帰ろうか・・・」。そんな声も聞こえてくる。
 
 控え室に残っていた学生ダンサーは、その日のショーケースに出演した白鴎大学EXAのPOPPINチーム、国際医療福祉大学のFreestyleのコンビCとY、遊びにきていた”じんべえ”と国際医療福祉大学のTだった。
 男ばかりの若いダンサーが集まれば、必然的に”ダンス”の話になる。「あーだこーだ・・・」とざっくばらんに話をしながら、それぞれが「ダンスをもっと上手くなるためには?」を模索していた。
 
 「一回、POPPINの”練習会”やりません?、自分もやってみたいですし・・・」
 話が進んでいく中でTがそんな提案をした。
 「いいね、それ!」
 Cが呼応し、EXAのPOPPINチームの面々も賛同していく。一年生だったYも、どこかはニヤニヤとした笑顔になって、静かに頷いていた。
 (練習会の開催か・・・面白いかもしれない)
 自分自身もそんなことを考えながら、EXAのMと連絡先を交換した。
 
 具体案の調整は後日。”新しいこと”が始まる。
 この控え室で生まれた小さな練習会の話が後の大きなうねりとなっていくことをまだ私たちは知る由もなかった。
 
 
 

2 The pessimist complains about the wind

(悲観主義者は、風に恨み言を言う)
 
 ”じんべえ”がストリートダンスを始めて、4年の歳月が流れていた。1年生を棒に振り、2年生を慌ただしく過ごした。3年生ではジャンルリーダーも経験したが、何も残すことが出来なかった。
 
 ストリートダンスを始めたきっかけは、高校時代に付き合っていたダンサーの彼女の影響だった。「同じ世界を知りたい」そのために始めたダンスは、今や自分の生活の一部になっていた。
 当たり前のように体育館へ練習に向かい、ひたすら練習を繰り返す。熱中している訳ではなかった。何かしていなければ、押しつぶされそうな気持ちになるからだ。
 
 高校時代に部活に打ち込んだが、ケガのため、レギュラーになることが出来なかった。受験でも希望の大学に入学することは出来ず、1年生の時は隠れ浪人をする始末。そんな中でサークル活動を放棄した1年生のとき、同輩たちが学祭で踊る姿に感動したのだった。
 「先輩たちと同じようにかっこよく踊っている。自分もあんな風になりたい!」
 そんな気持ちで再開したダンスだったが、2年生から始めたような自分にとって、後輩を指導しつつ、自分自身の練習を繰り返す日々は楽しくも辛い時間だった。
 
 そして、何よりも先輩方に負けたくなかった。
 
 一つ上の先輩とは、昔から因縁があるように思える。昔から一つ上の先輩たちに何事も勝つことが出来なかった。「大学では負けたくない!」そう思いながら、ひたすらに練習を繰り返した。思い返すと、長いdoocleの歴史の中で最強メンバーが揃う世代である。そんな人たちを追い抜こうとするのだから、並大抵のことではない。
 
 サークルの楽しい合宿にも行かず、飲み会にも参加せず、すべてを練習に費やした。いや、費やした”つもり”だった。結局、実力もつかず、ただ自分を自分で追い詰めるだけの世界にいた。
 
 そんな中にいたら、心もおかしくなる。先輩だけでなく、後輩すら疎ましく感じた。自分ではなく、先輩を慕う後輩たちを。当たり前のことなのだが、何も気が付かず、そんな中でひたすらに力を求めた。
 
 そんな学生生活をしているうちに4年生となっていた。当時の学科抗争にも負け、ただ社会に出ることを待つだけの身となっていた。焦燥感が自分を襲う。うわ言のように「これでいいのか?これでいいのか?」と繰り返す。
 
 幻聴さえ、聞こえるようになった4年生の6月。
「先輩方に勝たなければ・・・社会に出ても負け犬のような気がする」
 そんな気持ちを自分の中に渦巻いていた。気持ちを払拭したくて、大学を休学し、”自分を取り戻す”ことを目標にした。単位も足りている、あとは卒業論文だけ…そんな状況である。卒業するよりも、その時は自分を取り戻すことの方が大切だった。
 
 ”自分を取り戻す”と書いたが、何をもってそれを成したと言えるのか?
 未だによくわかっていない。ノート1ページ分に”取り戻す”と書かれた日記は、今、見直すと気持ち悪いとしか感じない。
 
 こうして、嫉妬と焦燥感によって生まれた”じんべえ”は、足の爪が割れ、血がにじみ出る靴下を履きながら、練習を繰り返していくこととなる。
 
 
 

3 Before the world

(Def Fect誕生前の世界)
 
 第2次ダンスブーム*1と呼ばれる日本におけるダンスの再流行が始まり、栃木県にもその波が到来した。  
 
 栃木県においては、「SC Crew」という最古のチームがオールド・スクールを中心に活動し、現在の大御所のダンサーたちの先駆けになったと聞いている。*2
 
 その当時に「ストリートダンス」に興味持った諸先輩方から大学におけるダンス活動が始まった。聞いている話から推測するに栃木県のダンスサークルにおいて最も古い活動が始まったのはは白鴎大学のEXAであり、その後、宇都宮大学doocleが正式にサークルに認可されたようだ。国際医療福祉大学I.D.Cにおいては、ストリートダンスが始まりではなく、Jazzダンスのサークルから始まり、その後、ストリートダンスが加わる形で現在の形になっていった。その名残として「ハーモニーホール公演」が現在も続けられている。*3
 
 じんべえが1年生の当時、各大学にストリートダンスサークルが存在していたが、交流はほとんどなかった。どちらかと言えば、大学ごとのつながりよりもストリートダンサーとの関わりを大事にしており、doocleにおいては茨城大学や関東ダンス連盟シグマなど他地域との交流の方が盛んであった。クラブシーンとのつながりを大切にする気風があったように思える。
 
 当時のクラブイベントにおいて、I.D.CのLOCKINチームをショーケースで見たことがあった。自分の大学以外のLOCKINチームを見ることが初めてだった自分は驚き、先輩に他大学にダンスサークルがあるのかを訪ねてみた所、「あういう奴らもいるよ」くらいの軽い反応だった。
 
 YouTubeや情報ツールが現在よりも発達していなかった当時は、交流することよりも独自の自分たちのダンスを追求すること、また、サークルとしての特色を高めた時期であったように感じている。
 その後、ダンスバトルが開催されるようになった際に多少の交流や大学生ダンサーたちの顔見知りが増えていくのだったが、具体的な交流は存在しなかった。
 
 じんべえ自身も、2年生の時にストリートダンサーとの交流が始まり、その際に宇都宮駅という練習場所で埼玉の大学にかよっていたTやアメリカ活動中のT、そして、白鴎大学のSと出会った。大学生同士の交流であったが、本人たちはストリート仲間という意識の方が高かったように思える。
 
 
 

4 A wise man will make more opportunities than he finds.

(賢者はチャンスを見つけるよりも、みずからチャンスを創りだす)
 
 そんな状況であった時に、行動を開始した者がいた。Def Fectの創設者の一人となったI.D.CのOBのTである。Def Fect創設に関わることになったTだったが、その行動が大きな時代の流れになるとは思っていなかったんじゃないかな?
 
 ある日、じんべえが体育館に練習に行くと…見知らぬ男がLOCKINを踊っていた。doocleは茨城大学とのつながりもあったので、その時点では栃木県のダンサーではなく、茨城の誰かが遊びに来ていたのだと思っていた。
 次の日の練習に行ってもまた練習している…そして、次の週にもいる。
 
 うーん、茨城の大学生が頻繁にこんなに宇都宮にいるのだろうか?
 
 そんな疑問を抱えつつ、周りの話を聞いてみると、国際医療福祉大学のLOCKERであったことが分かった。ちなみにこの時点は本人とはあまり話が出来ておらず、その時点では「大田原市という場所に大学があったのか!」という驚きの方が強かった。*4
 
 そんな交流が始まった当時、夏休み終わりにあるイベントがあった。文星芸術大学で開催されたFreestyle 2on2 Dance  battleである。なんのきっかけで開催されたかは不明だったが、doocleの先輩たち、同輩、そして、I.D.CのPOPPIN、LOCKINのチームがこのバトルに参加した。
 学祭の企画として行われたもので、DJサークルの主催である。ジャッジもDJというある意味面白い企画だった。先輩の車に乗せられてその場所につくと見知らぬ男たちがダンスの練習をしている。Tも混ざり練習をしていた。
 「あんなに練習しているのだ。絶対に負けたくない。」
  ”夏休みの練習を終え、自分のレベルは上がっている、そう信じたい。先輩たちに勝つ!”そんな気持ちなので、とりあえず敵視していた。
 
 ダンスバトル自体の結果は準優勝。優勝は先輩と同輩のチームだった。
 自分自身に実力がついたのか…?それなりの結果を得たが、そんな疑問が自分の中に巡っていた。「勝てたはずでは?」そんな考えが堂々巡りし、なんだか落胆してしまった。
 
 そんな元気をなくした自分に声をかけたのが、Tだった。
「じんべえさんと話してみたいって思っていたんですよね。ダンスかっこいいじゃないですか!ちょっと飯食いに行きません??」
 それまで話をしたことがあまりなかった僕は少し驚いた。それと同時に嬉しかった。自分のことが少し認められたような気がして…
 
 様々な内面の葛藤があった自分にとって、”結果”を得ることが心の安らぎになると信じていた。しかし、それは狭い世界の自分の価値観だ。
 だが、そういった交流の中で他人から認めてもらえること、また、様々な意見や価値観を交わすことが大切だということを知ることが出来た経験だった。
 
 Tの行動のおかげで自分は新しい価値観を得て、そして、新世界へ進む切符を手に入れたのだった。
 
 
 

5  My life didn’t please me, so I created my life.

(私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの)
 
 Tとの交流によって、国際医療福祉大学との距離が縮まった。そして、そんな中で自分の心の指針となったある後輩との出会いを果たすことになる。
 
 6月のことだった。Tに誘われ、I.D.Cが開催する新入生歓迎向けイベント「ユナイテッド」に遊びに行くことになった。じんべえ自身、他の大学のイベントに行くことは初めてのことで、自分のサークルと違う様々なショーケースが見れるとウキウキしていた。サークルの形式もダンスも全く異なるイベントである。なにか面白いことが出来るではと感じていた。
 
 道を迷いながら、遊びに行ってみると…想像していたよりも明るい世界がそこにあった。*5みんな笑顔で踊り、イベントを楽しんでいる。それになんだか、綺麗な世界だ。自分のいるサークルとは少し違うサークルのイメージを体感した。
 
 イベントが終わり、Tがある男をじんべえの前に連れてきた。
「こいつ、高校の時にもダンスしていて、見どころあるんすよ!」
「…どうも…Yっていいます…よろしく、く…おねがいします」
 ヒョロヒョロで1年生らしい弱々しい雰囲気であったが、なにか仕出かしそうな雰囲気を持つY。この出会いから長い付き合いになると思ってもみなかった。
 
 少し話が飛ぶが…後にPOPPINの指導や色々な経験をYに話すことになる。
 Yはその後、1年生ながら、様々なイベントに参加をし、また、色々な出会いやサークルに変革を加えていくパイオニアとなった。
 POPPINというものは、Yが一年生当時にI.D.Cではジャンルとして成立しておらず、また現在のサークルの指導形式は異なっていた。*6Yが部長となった際にPOPPINとしてのジャンルを確立し、その後、彼は指導形式の変更を行い、現在の形へ移行させた節目を作った人物である。
 
 Yとの出会いによって、僕の頭の中に「練習方法やダンス情報をどうやって共有していくか?」という新しい課題が生まれた。
 
 ストリートダンスの文化の側面として、「自分だけの何かを大事にする」という性質がある。これはとても大切なことであり、自分だけの技・魅力・考え方・心を持つことは非常に大きな武器となり、自分の宝になる。そういった気質の中で最低限の情報共有を得て、”個”としてのダンスの追求が重要となる。しかしながら、そういった追求をするためにもある程度の”知識”や”情報”は大切である。
 
 Tとの交流、Yとの出会いの中で、そういった情報共有をしていきたいという気持ちが自分の中に生まれた。これはある意味、ストリートダンスの気質とは相反する気持ちなのかもしれない。
 
 当時、その根幹になった自分の気持ちは「認めてくれた」という気持ちだったのかもしれない。それは”承認欲求”という幼い子どもが持つ気持ちだったかもしれない。しかし、そういった情報を共有したいという気持ちが後の自分につながってくるのだった。
 
 
 

6 I will prepare and some day my chance will come.

(準備しておこう。チャンスはいつか訪れるものだ)
 
 I.D.Cとの交流が始まった中、もう一人のキーマンとの出会いも生まれていた。白鴎大学OB・M、その人である。
 
 出会う前に、実は話の中でその存在は知っていた。
 
 一緒に練習した白鴎大学のSからは「やー、Mはじんべえさんと話したいと思いますよ 笑」。とあるストリートダンサーからは、「Mっていうboogaloo*7が好きな子いてさ、話したことある?」etc...
 
 話は聞いたことがあっても、姿は見えず。
 POPPINが好きな子がいることは分かるが、全く姿は分からない。ちなみにMの方も同様だったようで、話をしてみたいが、どんな人か分からないという状態だったらしい。
 
 ある夜、ララスクエア前の練習をしていた。Sも後ほど練習に来るそうで、一人でSを待っていた。携帯のメールの着信音が鳴る。
 
 ”少し遅れます(^^) Mが来るらしいので、話してみてください”
 ”えっ、どんな人?”
 ”見れば分かります(^^)大泉洋*8に似ています”
 
 無責任である。適当なメールのやり取りの中、大泉洋に似ているMを待つことになった。
 
 事前の話の中で、クラブイベントなどでニアミスしているようだったが、自分の記憶の中では”大泉洋”に似ている人は見かけたことがなかった。
 
 練習をしていると…後ろから満面の笑みの男が現れた。
「どうも」
 ニヤニヤしながら、こちらに近づいてくる。大泉洋?似ている気もするが、件のMは、こやつのことだろう。
 
 挨拶を交わしつつ、少し話をした。本当に少しの時間だったが…しかし、その中でダンスに対する情熱が伝わってきた。情熱というよりも純粋さが伝わってきた。
 「電車の関係でもう少ししたら、ここを去らねばならない」と彼は言ったが、話をしている中で少し踊ってみせてくれた。綺麗なboogalooである。
 
 (なるほど、噂通りなのか、いや、しかし…)
 boogaloo Styleの彼が自分と話をしたいという気持ちがよく分からなかった。*9同じStyle同士であれば、話もしたいだろう。しかし、違うStyleを追求するもの、水と油ほどの考え方の違いだ。
 
 これは彼が純粋にダンスを追求する心を持った人間だったからだ。自分と異なった異なった考え方であっても吸収したい。そして、自分のStyleも追求したい。ダンサーらしい強欲で、熱意のある彼だったこそ、至った行動だったように思える。
 純粋な彼だったからこそ素直に僕に話しかけ、そして、何かを奪いたいと考えただろう。そんな彼だからこそ、自分も何かを差し出せるないかと思った。
 
 後のダンスバトルにおいて、彼とは何度か刃を交えることになるの。また大切な出会いが生まれていたのだった。
  
 こうして、宇都宮大学doocle、国際医療福祉大学I.D.C、白鴎大学EXAの役者は揃った。話は冒頭に戻っていく。
 
 
 

7 It’s all about the journey, not the outcome.

(すべては過程だ。結果ではない)
 
 POPPIN練習会の準備は勧められ、宇都宮大学の体育館で開催された。ストリートのダンサーの先輩方の協力も得て、様々な人たちが体育館に集った。現在残っている資料によれば各大学から42名に参加し、様々な年代の人が一同に介した企画となった。
 
 POPPINの練習方法を得るよりも、これだけの多種多様な大学生が集まり交流出来たことの方が意味があったのではないかと思っている。
 余談ではあるが、当時、SNSを介して自治医科大学MORLとのつながりも出来、doocleの練習の見学に訪れるなど、じんべえ自身の出会いが広がった時期でもある。
「自分の大学だけではない、広い世界で様々な人がダンスをしている」
 当たり前のことかもしれないが、そういったことを実感することが出来た瞬間でもあった。
 
 この時期に開催されたものは、POPPIN練習会だけではなかった。
 doocle主催Freestyle Dance battle『D-1』である。元々は、ダンスバトルイベントの開催されたことを機に*10サークル内のダンスバトルの練習と意識向上を目指して、始めれた試みであった。”サークル内”と言いつつも、doocle自体が来るものを拒まずの体制だったため、数多くのストリートのダンサーが参加可能となっていた。
 こういった『D-1』の参加の呼びかけを行ったことで参加人数が増え、他大学からも多くの大学生が参加し、互いを高め合った。練習会で情報の共有を行い、そうして、D-1によって、他の学生の実力を確認しあったのである。これらの開催によって、一気に交流が波及していったと考えている。

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(当時のD-1のフライヤー各種:優勝者や活躍した人がモデルとなって絵が描かれる)

 
 ここで時期は少しずれてしまうのだが、2010年6月20日に開催されたD-1の映像のリンクを貼らせていただく。

youtu.be

(Def Fectが生まれて2ヶ月後に開催されたD-1:動画は全編となるため、長い)

様々なダンスバトルの機会は、参加者に実力や交流の中で自分の課題、そして、サークルへの”誇り”が高めていった。

 
”昨日は自分が負けたことも悔しいですが…なによりI.D.Cが負けたのが悔しい。
 本戦ではdoocle先輩後輩対決、BABAB対決、GANG☆STAR対決、doocle-EXA対決、いろいろあったけど…I.D.Cはない。こういう対決を見ていく度に悔しさが増してく… こんなんでいいのか。
みんなで頑張って鍛えなおして、次はI.D.C対決を実現させてやる。 ”
(当時のYの発言)
 
 他大学という自分と違う世界の住人たちは、多くのことを教えてくれる。価値観の相違、実力さ、そして、何より自分のサークルへの誇りを掘り起こしてくれる大切な要因となる。
 
 話の時期が飛んでしまうが、この年の4月からはTがオーガナイズする「I.D.C NIGHT」が国際医療福祉大学で開催され、たくさんの名勝負が生まれた。このイベントは定期開催され、ポイント制で決勝大会を競い合う今までになかった形のダンスバトル形式となった。各大学の同世代たちが刺激し合い、そして、競いあった。ライバル同士の戦いがさらにDef Fectとしての密度を高めていった。また、EXAにおいてもバトルイベントが開催され、刺激し合える環境が整っていった。
 
 POPPIN主体の話となっているが、LOCKIN練習会も頻繁に行われ、POPPIN練習会も様々な人が参加と記憶している。ジャンルごとの特色が出始め、POPPINは個人指導や飲み会、LOCKINでは練習会やWSへの参加、HIPHOPはチームを組むなどそのジャンルの特性にあった環境が構築されつつあった。
 
 
↓↓次の記事はこちら↓↓
 
↓↓じんべえのダンスの経歴↓↓
 

*1:「たけしの元気が出るテレビ」から始まったダンス甲子園などメディアにおいて、ダンスが取り上げられ、MC Hummerなど楽曲の流行した時期

*2:諸説あるが、これだけで栃木県のダンスの歴史を投稿記事に出来るほどの分量になるので、詳しくは割愛。

*3:この近辺の話は、各大学のOB・OGに聞いてみてください

*4:じんべえは青森から栃木へ進学したため、栃木県の地理情報に疎かった。

*5:宇都宮大学では昼の花がアメフト部、夜の蝶がdoocleと言われていた。華やかなイメージもあったが、いかついイメージもあるサークルだった。そこもかっこいい所なのだが。

*6:当時I.D.Cではすべてのジャンルを経験し、その後、中心となるジャンルを決める指導形式がとられていた。doocleも初期の段階ではそのようになっていた。これはサークル全体でショーケースを行う際に苦手ジャンルをなくすための形式であったが、その後、サークルの人数規模が大きくなり、だんだんと難しくなる。そのため、1年生からジャンルを決めて練習する形式に移っていく

*7:ROLLを基軸としたノリやスイングを大切にするStyle

*8:このメールのため、イメージが完全が大泉洋

*9:じんべえは生粋のAnimation Style

*10:REALTIMEというダンスイベントが2006年4月に開催され、そのバトルを意識して2006年6月に初開催された