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The Origin Of Def Fect  ~Side Stroy(3)Dancers, be ambitious~

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Side Stroy -Dancers, be ambitious-

 本編に少しだけ記述があるが…創設当時は、Def Fectは大学生の枠組みを意識した組織ではなかった。専門学校生や高校生等、幅広い枠組みの中で若人たちの交流を目的とした団体であった。

 

 今回は、大学生以外の枠組みについてのお話を書いていこうと思う。

 

 

 

1 New Jack(新参者)

 ストリートダンスが認知され、様々な現場での教育活動が実施されている。幼稚園や小学校などの「キッズ」と区分される年代から50代ほどの大人までダンスに年齢の枠は存在しないような世界が当たり前になった。

 今では小学生に「ダンス、どれくらいやってるの?」と聞けば、「うーん、8年」と答えが返ってくるほどだ。筆者自体のダンス歴が10年だということを考えると、驚くべき年数だ。栃木県では大学生のダンサーたちが人数が多くなっているが…ダンスを大学生で始めること自体が、もはや遅い出来事になっているかもしれない。

 

 当たり前のことではあるが、大学生となる年代以前に”ダンス”に触れ合い、そして、続けている人たちがたくさんいるのである。

 

 Def Fectの設立当時…『New Jack』という高校生たちの集まりがあった。彼らはダンススクールで、また、学校の部活動でダンスを経験した者たちであり、”高校生”という青春をダンスに打ち込んだ者たちだった。

 現在でもそうであるが、”キッズ”という枠組みは中学生までである。高校生以上は大人と交じり合うことが年齢の区分だ。しかしながら、高校生という「キッズ」とも「大人」とも違う微妙な年代の中で、様々なことを模索していた。精神的も肉体的にも未熟で、法律の区分の中で出来ることと出来ないが分かれる。そういった難しい年齢区分であると思う。

 ストリートに飛び出し、大人と共に練習を繰り返す者もいれば、ダンススクールに通い、先生に教えを請う者もいる。そんな中で自分に出来ること、将来を見据えて様々な活動をしていた。

 練習場所の確保、仲間を見つけるなど…大学のサークルには分からない苦労もたくさんあったように思える。彼らはダンスにも飢えていたが、それ以上に同年代の理解者、そして、教えを請うことの出来る誰かを探していた。そういった中で、大学生という少し年齢の者たちが刺激し合える仲間になり得る可能性があったのだ。

 

 ここで敢えて書いておきたいが、高校生と大学生、18歳と17歳という年齢は日本の現状を見るに大きな溝があるような気がしている。大学生であれば許されるような風潮も高校生では許されない。もちろん、法律に違反する行為はいけないことではあるが…行動制限が大きく違っているような気がするのだ。

 

 今更ながら、当時の自分も高校生たちと交流を持つ場合は少し気を使っていたような気がしている。大学生とは身体の出来も違う訳だし、精神的にも未熟だ。経験出来ることも多くない。だからこそ、最善手が大学生の指導とは違うように感じられたからだ。

 そんな中でも創設に関わった当時の若人たちは、様々な者を吸収し、その中で足掻いていった。自分の将来、ダンス、悩みは尽きなかったかもしれないが、ゆっくりと栃木にとっても大きな存在になったように感じている。

 

 

 

2 JOKER

 そんな高校生たちの出会いの中で、今でも付き合いの続く彼がいた。大田原市に住み、国際医療福祉大とも関わり深いナオキ(仮名)である。

 正直な話、出会った当時は”危うい奴”だと感じていた。外見はイケメンである。しかし、傷を持つような、若さの中にコンプレックスがあるような…危険な男というよりは、腹の中に爆竹を抱えているような雰囲気。

 高校生の時であれば、誰しもそうであるが、リピドーがあって、変に自信があって、流行りに敏感で…そういった者をすべて併せ持ったような人間だったと思う。

 

 自分自身もコンプレックスなどのドロドロした感情を内包した人間である。なんというか同種の何かを感じとったのかもしれない。

 

 ナオキはその後、進学のために栃木を離れるが…当時のDef Fectの規約は大学生だけを対象にするものではなかったため、彼は「栃木vs群馬」においてもDef Fectの選抜選手として試合を果たしている。

 

 彼はいつもこう言っていた。

「仲間がほしい」

 彼の願いを僕は痛いほど理解出来た。それは単純に”ダンス友達がほしい”ということではない。同じように研鑽出来る、そして、様々なことを語り合える誰かがほしかったのだ。しかし、それはとても難しいことように思えた。

 

 彼はダンスに打ち込んだ人間である。同世代に彼のようにダンスを打ち込んだ人間が果たして何人いるだろうか?彼のように練習した人間がどれほどいるだろうか?

 

 これは、決して練習量がない人を貶している訳ではない。ただ、彼と同等の人を探すには、この地域では人が少なすぎるように思ったのだ。目的意識の違い、それを修正していくことも難しい。目線の高さの違い、目線の方向の違い…様々な人が様々な目的でダンスをしている。そんな中で自分と全く同じ方向を向き、同じ目線の高さを持つ人間を探すことは難しいことだ。

 

 彼は”ストリート”という世界に、そういった人間を求めた。

 それは正解であり、ある意味間違いのように感じた。全員がほぼ年上の人間であり、意識も高い。しかしながら、同年代の仲間を…その気持ちは決して満たされることはないから。

 

 

 

3 I Will Be Back

 彼が進学先から帰省してきた時、少し垢抜けたような顔になっていた。

 この小さな世界よりも大きな世界を知り、様々な経験をしたからだ。正直、尖って帰ってきたかと思った。しかし、そんなこともなく、若いながら…対応力を得た人間になっていた。

 

 時間が進み、彼の元々いた地域にも新たな人材が増えてきていた。

 同世代がいたのだ。少しずつ溶けこむ彼を見て、僕は少し安心したことを覚えている。

 

 Def Fectは、そんな彼を温かく迎えたと思う。

 同じダンスをする仲間として、先の世代とダンスをした者として…彼の知識や経験は非常に大きなものだったように思える。

 

 彼から「栃木vs群馬」の予選会に出てもいいのか?という相談を受けたのは、そんな矢先だった。Def Fectの規約がそうなっていたとは言え、ほぼ大学生の中に彼が入ることは、果たしていいのだろうか?

 一瞬、そんな考えがよぎった。しかし、よく考えてみれば、彼は最初から”Def Fect”なのだ。しかも、最古参だ。設立当初からDef Fectを知る一握りの人間だ。企画イベントを運営していた執行部も了承し、彼は予選会に参加し、HIPHOPの代表メンバーとして選抜された。

 

 なんだか嬉しくなった。

 仲間を欲する彼が同世代の舞台で、違うスタージで培ってきたものを融合し、一緒に踊る。そんな姿がとても誇らしかった。そして、一気に彼が成長したような気になった。

www.youtube.com

 

 予選会から本番に至るまで、彼は様々なことに尽力し、また、イベントが終了してからも彼の出身地域に影響を与えた。後輩の育成に取り組み、様々な話をし、たくさんのことを共有し合った。

 

 彼がDef Fectや栃木に対して、心を向けてくれることが本当に嬉しかった。”出身地域”、”チーム”…ストリートダンスにおいて自分の背景となり、力を与えてくれるものは数多く存在している。

 REPRESENT”(レペゼン)

 ストリートの文化においてよく使用される言葉だ。ダンスバトルの時でもショーケースでも、普段の会話でもよく出る言葉。「~を代表する」という意味。

 普段、聞きすぎて、身近過ぎて気がつかない言葉かもしれない。そんな「~を代表する」という意味は、身近にあっていい言葉なのだろうか?

 

 僕たちはいつの間にか、何かを代表し、何かを背景に持つ。しかし、その本当の重みを知るのは、一体いつなのだろう?

 

 ”大学生”たちは、よくも悪くも他地域からやってくる者ばかりだ。そして、この地でダンスを学んでいく。ストリートの文化に触れ、流行りや自分の信念の元に自分自身を構築していく。

 ふとした拍子に考える。自分はどこの代表なのか?”代表”と名乗っていい者なのか?

 

 栃木県の大学生のダンスシーンにおいて、最もそんな疑問が解決しづらいことなのかもしれない。そして、最も理解しがたいことなのかもしれない。

 Def Fectは懐が深い組織である。そんな中、彼の「仲間がほしい」という願いは、自分の居場所を求めるものだったような気がする。誰かに肯定されてこそ、自分が肯定するからこそ、そこに誇りは生まれる。

 彼が原初の時代に感じたことは、その時に「レペゼン」という初めて意味を成したことで成立したのではないかと思う。彼は故郷を代表する誰しも認めるダンサーになったのだと感じるのだ。

 

 

5 Love is doing small things with great love

 時間が過ぎ、New Jackと名乗っていた者たちは、もはや古参となった。

 栃木県を離れた自分のSNSに彼らの活躍が流れてくる。Def Fectと一緒の写真を載せながら。

 

 ここに書くことが出来なったが、イベントオーガナーザーやクランプの道を歩む彼女もNew Jackであったし、ブレイクダンスを教える彼もその世代だった。時間が過ぎ去っても彼らは挑戦し、そして、Def Fectを支えてくれている。

 彼らは、僕の気持ちを知ることはないだろう。それがとても嬉しい。

 打算も思惑もない中で、Def Fectの後輩たちと一緒にダンスをしてくれている。それが本当に嬉しい。

 

 現在では、高校生と交流することは少ないかもしれない。大学生という枠組みでの交流の方が遥かに多い。そんなダンスシーンの中で、”ストリート”という社会人と学生とが交流するように、そこまで時間を過ぎた訳ではないが…現在のダンスシーンはある意味、一つの在り方ではないだろうか?

 社会人と学生のシーン、サークルとクラブシーン…など現在でも在り方を模索することは続けられているが、そういった意味でまだ成長途中の栃木県のダンスシーンはこれからも変化していくだろう。

 

 単発的な変化を良しとせずに、中期的な目線で様々な交流が増えていけばこれからもたくさんの出会いが生まれると考えられる。高校生・大学生、双方は短期的な出会いかもしれないが、そういった”架け橋”となる人物が存在していることは、とても恵まれた環境なのだと思う。

 

 誰しも最初は”新参者”だ。

 新参者の願い、それはダンスシーンを動かす次の大きな力に変わっていくかもしれないなのだ。

 古参となった”New Jack”たちの活躍にこれからも期待している。

 

 

 

 
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The Origin Of Def Fect  ~Side Stroy(2)下克上~

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The Origin Of Def Fect ~Side Stroy 下克上~

"下克上 意味:下の者が上の者に打ち勝って権力を手中にすること ”

 年功序列が大切にされる日本において、この言葉を聞く機会は少ないかもしれない。しかし、”闘争”の場において、それは常々繰り返され、下位の者が上位へ噛みつく瞬間こそ、人間の本質であると自分は考えている。
 ”番狂わせ”が起きるからこそ、人は”挑戦”し続けることを大切にし、そして、自らの研鑽をかかすことが出来ない。

 しかし、それが起こした時、人は何を感じるのだろうか?

 

 

 

1 人生は出会いが全て。出会った人を喜ばせることから、道は開ける

 今までの記事内容で察した方は多いと思うが、自分自身と宇都宮大学doocle、国際医療福祉大学I.D.Cの結びつきは強い。交流の密度というよりもどちらかと言えば、指導した回数が多いからである。

 では、白鴎大学EXAとはどうなのか?

 正直な話をするとMを含め、白鴎大学EXAに対してはMから続く戦友のような感覚が強く、後輩たちに対しても、そういった雰囲気を感じていたのが本音である。話をしたり、一緒に酒を飲む機会もあったが、なにか少し違った雰囲気を感じていた。

 

 EXAの後輩たちはとても純粋だ。
 それは現在も受け継がれている部分だと思う。許容範囲が広い、心が広いというべか…自分の良いと思ったことに対して貪欲で、そこに打算をいれずに物怖じせずに話をしてくる。だからこそ、様々な改革や技術を取り入れることが出来たのだと思う。

 

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 2011年。先の記事に書いたYがDef Fectの連盟長に就任し、初代の執行部から受け継いだものをさらに一歩進める年代となっていた。この年のサークル入部者数は多く、各サークルがより一層躍進するような気配があった。

 そんな中、様々な大学や企画に参加していた自分に「EXAに有望な奴が入った!」という話を耳に挟んだ。話の出元はMである。

 「柔道出身の奴なんですが、面白い奴なんで、話をして見て下さい!」

 余談ではあるが、ダンサーの体格が大型化している近年である。入学当時は自分も体格が良いほうだと思っていたが、入ってくる新入生たちは、自分よりも身体が大きいことが多くなっていた。

 (柔道経験者?それも結構強い…それならば)

 話を聞いた感じでは、自分の中で巨漢の強面な大男がイメージされていた。

 

 EXAでイベントがあり、遊びに行ってみると…すぐにMがかけてくれた。

「こいつですよ。前に話をしていたの(^ω^)」

 そこには自分がイメージしたような大男ではなく、真面目そうな青年がちょこんと立っていた。

「"たま”って言います。よろしくお願いします!」

 思っていたより元気に礼儀正しく挨拶を返されたので、驚いた。*1

 

 柔道をしているせいか、とても礼節のある人物だった。
 初対面から目を見て話せる人間は少ない。それが出来る人間なののだと思った。

 それがEXAの”たま”との出会いだった。

 

 

 

2 純粋な心を持っているか?それは、目の輝きと朝食のメニューで分かる。

 ”たま”はEXAのPOPPINについて学びつつも、広く様々なものを取り入れることの出来る人物であったと感じている。また、同世代にも恵まれ、彼は交流を増やしていった。

 

 悪い意味ではないが、先輩が後輩の話を話すと大抵はある程度の謙遜と否定が入る。
「あいつは一生懸命やっているが…☆●◇」
 これは非常に日本的な儀式かもしれないが、学生の自分たちにとっても同様に行われていた。

 しかしながら、”たま”の話が出た時には、そういった謙遜が起きず、先輩方は皆、「あいつは頑張っている」と褒めていた。しっかりとそれ相応に認められている部分があったのだろう。

 

 彼は貪欲に様々なモノを受け入れ、そして、研鑽を積んだ。その道のりは大変なものであったと思うが、彼なりに一生懸命だった。同世代もまた彼を意識していた。それは技術的な話ではなく、どちらかと言えば、彼の心意気に惹かれる何かがあったからだと僕自身は考えている。

 

 その当時、彼が次期のDef Fect連盟長ではないか?と考えていたほどだ。同年代を牽引し、自らも歩みを進めようとする姿は素晴らしいものだった。

 

 

 

3 闘争は終わり無き。人の気持ちも終わり無き。

 2012年。2年生となった彼らを含め、Def Fect全体が浮足立っていた。「栃木vs群馬」というイベントが完全に定着し、それが新年度のスタート時から、イベントを見据えた練習が行われていたためである。

 イベントが始まり、早3年目。栃木メンバーを選抜する予選会も開催されることになり、より一層ライバル意識が高まっていった。ダンス部におけるレギュラーという考え方は栃木には存在していなかったが、予選会の開催によって、幸か不幸か落選する人、そして、選抜され闘うことの出来る人間が分かれることになったのだった。

 特にPOPPINはこの3年間。ジャンル別バトルでは無敗であり、自分たちも誇りを持っていた。先輩方は当たり前にしろ、後輩たちがその選抜枠を目指してもいいのだ。有力視されるのは4年生となるが、その上級生にすら噛みつくことを後輩たちは意識したていた。

 

 ”代表選抜会”が迫る中で自分で出来ることは、後輩たちを煽ることと色々なことを教えることだった。”煽る”というのは言葉的にそんなにいい言葉ではないかもしれない。ただ、初めて開催される選抜会のため、気の張っている子たちも多い。そんな悩みややる気を引き出すために話を聞いて回ることがとても大切に思えた。

 「4年生であっても選抜から落選する」

 この年のイベントが最後になる4年生にとって、身内同士の争いは気の抜けないものであったと思うし、何よりも彼らのプライドが落選させることを納得しないだろう。それは前評判から注目される実力者たちもそうであった。「順当にいけば…」そう考える者も多い。しかしながら、実力を発揮するために日々練習を重ねる者たちばかりだった。

 

 下級生にとって、この選抜会はある意味自分自身と向き合う機会であったと思う。自分が想像以上に牙のある人間だということを知る機会だ。出るからには、選ばれたいし、上級生に勝ちたい。しかし、”勝つために何が必要なのか?”

 自分の苦手とする部分。そして、気持ちと向き合う機会。そして、当日にはお世話になってきた先輩たちに全力で闘いを挑まねばならない。「栃木vs群馬」が開催されてから3年。このような空気になったのは初めてのことだったし、表立った殺気を大学生たちが纏ったことも初めてのことだったのかもしれない。

 

 ”たま”たち2年生たちは、そんな空気の中で、平静を装いつつも、身体の内から燃え上がっているものばかりだった。

 

 doocleの2年生に話を聞いてみれば、「選抜されたい。しかし、同年代に負けるのも嫌だ」と言っていた。選ばれることがあれば、その時点で同年代のトップである。そして、先輩たちからも一目置かれる存在となる。欲張りに見える感情かもしれないが、この闘争の中では、正義であった。ちなみに当時の2年生のPOPPERに話を聞いた所、3人が「たまには絶対に負けたくない!」と語っていたことを覚えている。

 

 僕自身はバトルDJとして、この選抜会に参加していた。
 全員の気持ちを知るものであったが、容赦はせずに選挙することを決めた。得意・不得意も全員知っている。しかし、皆平等に、そして、最高に踊れる選挙をすることを願い、パソコンをいじっていたことを覚えている。

 

 執行部となっている3年生たちは、運営に忙しさがあったが、己の代のイベントである。”4年生”が優勢かもしれない。そうであっても、ここで倒せなければ次はないかもしれない…どの学年よりも盛り上がっていたのかもしれない。

 

 たまに話を聞いた時、

「今日は勝ちたいですけれど、全力でやるだけです!」

 とても謙虚にそう言い放った。緊張は見られず、どこまで自分の力が通用するのか楽しみにしているようだった。

 

 この当時の本音であるが…2年生たちには選抜の可能性があっても、10%に満たないほどの確率だと考えていた。POPPINは層が厚く、その上、経験値が足りない。絶対ではないが、選抜に選ばれるためには…自分の可能性を信じるしかないと感じていた。

 

 様々な思惑の中…ついに選考会が開始されたのだった…

 

 

3 自分で踏み出すのか?風に身を任せるのか?

 選考会は、思っていた以上にピリピリとした雰囲気で始まっていた。
 開始前のアップ段階から笑顔よりも張り詰めた顔の方が多い。笑顔で「やぁ」と挨拶しあっても、目は笑っていない。全員が選ばれることを願っている。

 闘争心を高めるために目を閉じ、音楽を聞く者。バトル練習をして、既に闘いのモードに入っている者。鏡の前に立ち、自分のダンスを確認する者…それぞれが自分のやり方で気持ちを高めていた。

 

 選考会はLOCKINから開始された。

 アクティングを大切にするLOCKINが笑顔がない。表情は真剣そのもの。選考会は対面式で2人ずつ踊り、ジャッジ3人の総得点の高いものが選抜される。ジャッジのアイディアで勝敗もつけることになったのだから、より普段のダンスバトルのような雰囲気が出やすくなっていたように思える。

 選抜会自体の空気が初めてなのだ。そんな中で全員が空気を創りながらの対戦が続いていた。

 

 POPPINの選考となった。
 トップバッターは当時の3年生同士である。同じサークルの執行部同士が顔を合わせたのだった。どちらも選抜に選ばれるような実力者たちだ。

 曲をかける前に観客を見回すと、後輩たちは不安のような…真剣なような顔で先輩たちを見ていた。初回のバトル、これが選考の基準になり得る。そう考えたからこそ、こういった感情が表に出るのだろう。

 

 先行を取ったのは、doocleの”まさ”。選抜が濃厚とされる実力者である。自信もあるのだろう。落ち着いて自分のダンスをする。このピリピリとした空気を切り裂くような個の感性である。

 初回のバトルが終わった時に彼は…ゆっくりと観客席を見た。
 結果が当然であるように…

 

 2年生たちの意気込みは素晴らしいものであったが、バトルでのダンスは散々なものであったと記憶している。気持ちが空回りしているからだ。

 素晴らしい気持ちに反して身体が思うように動いてくれない…経験値が足りないのだ。先輩たちは周辺のダンスバトル・練習など3〜4年以上の研鑽を積んでいる。踏んでいる場数が違う。そんな中でやはり初めての空気、重圧の中で自由に自分らしくあり続けることは難しいことだろう。

 

 たまの順番が来た時、そんな2年生達を見ていた僕は、「たまも同じように緊張しているだろう…」と思っていた。案の定、目を見開き、そして、身体はこわばっているように見えた。

 しかし、それは彼の決意の現れでもあった。

 

 

4 心はクールに、身体はホットに

 たまは想像以上に善戦していた。
 緊張していた身体は、未熟なダンスではあるが、確実に音楽と共にあった。”緊張することは悪いことではない”あるアスリートの言葉である。適度な緊張は、自分自身のパフォーマンスを高める。気持ちと身体が一体となっていた。目の前の相手に熱意をむき出しにしながらも、自分の背伸びしない程度に踊っていた。

 見据えるのは選抜させることである。特異な環境、会場の雰囲気…飲まれる同輩たちを横目にしっかりと自分のダンスを踊りきった。

 

 この時点ではかなり有望である。残りの試合に命運は託されていた。

 

 POPPIN全員が踊り終えた時…僕自身は4人のメンバーは確定のように見えた。しかしながら、あと1人が誰になるのかは、ジャッジのみが知るような状況だった。

 上級生の気持ちも…下級生の気持ちも知っていた。全員が選ばれればいいのかもしれない。それは叶わぬことだ。あと1人がどうなるのか?それは何かの到来を予感させる期待であったかもしれない。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 結果発表が始まると、会場は静寂に包まれた。

 名前が呼ばれて行く度に一喜一憂が繰り広げられる。涙を流すものもいた。当然のことと胸を撫で下ろすものもいた。そんな中、最後の一人に”たま”の名前が呼ばれたのだった。

 

 この時、僕は”たま”と落選した3年生の顔を見た。どちらも放心しているようだった。

 

 予選会が終わり…会場の撤収が始まった。

「俺、納得出来ないですよ!」

 3年生が俺に近づいて、そう言った。かなり怒っているようだし、結果に対して不満もあったのだろう。

「じんべえさん、どう思います?」

 4年生も自分に近づいて、そう言った。

 

 誰がどう不満をこぼそうが、それは”決まった”こと。そして、今回の件に関して僕自身が口を挟むことは出来ない。

 選ばれた者は、選ばれた重みを感じ、そうして、闘わなければならない。
 選ばれなかった者は、選抜された者に対して気持ちを託さなければならない。

 それがこの闘いの目的なのだ。

 撤収しつつも…後輩たちから話を聞く。アドバイスや気持ちのケアをする。それが会場にいた先輩の役目だと思った。出来れば全員と話をしたかった。選ばれた者に祝福を、そして、落選した者に心のケアを。それが今後の左右するこだった。

 

 ”たま”に声をかけてみると、まだ放心しているように見えた。
 すぐに帰らなければならないと言う。話も出来ていないし、彼とは話をしなければならないと思った。EXAの先輩ではないし、POPPINも彼には伝えることをしていなかったかもしれない。しかし、Def Fectの先輩として、選ばれた彼に祝福を伝えたかった。そして、彼の”放心”した心を取り戻すべきだと思った。

 

 彼を途中まで車で送り届けることにした。

 ここで本当のことを書くが、その日は宇都宮で用事があり、彼を送ることによって

 反対方向の道へ行く。しかし、それ以上に話を聞いてみたかったのである。

 

 ”たま”を助手席に乗せて、彼の家の方角へ。

「今日は…お疲れ様」

 なんて、社交辞令を交えつつ、彼と話をした。たまはいつもように礼儀正しく受け答えをしてくれた。しかし、彼の本心はどこか遠くにあった。少しずつ、彼の心に踏み込んでいく。心がどこなのか?何を考えているのか?

「俺、選ばれてよかったんですかね?」

 彼の家の近くになった時に、吐き出すように彼はそう呟いた。3年生から奪い取った席。それは誇らしいものでもあったが、優しい彼には重いものであったかもしれない。

「選ばれてよかったと思うよ。それを言ってはいけない」

 自分は、そう返した。闘いは勝敗がつく。1か0かの闘いでなくても、自分の心が敗者か勝者を決める。自分で勝ち取ったものに、自信と誇りを持ってほしかった。

 

 自分がそう諭すことに意味はなかったのかもしれない。EXAの先輩たちや仲間たちが彼を支え、誇りを取り戻してくれるかもしれない。しかしながら、最も年齢を経た者として、そして、最古からDef Fectを見た者として、彼を勇気づけたかった。自分の言葉は重い。だからこそ、憂いをなくす力があると思った。

 

 彼は静かに頷き、自分自身のことを確かめるように「がんばります」と言った。

 それでいいのだと思う。彼を送り届けた時に、その仕事は終わった。

 

 

5 その後

 選考会が終わり、各人がそれぞれの目標に向かって進み始めた。

 選抜されなかった2年生たちは、”来年”を見据えていたし、選ばれた者たちは決戦にむけて練習を続けた。初めての開催ということで気持ちを引きづった者もいた。そういった者たちのケアは先輩たちが行動していた。

 

 ”たま”たちの選ばれた者たちもルーティーン作りに励み、様々なことを試していったようだ。

 

 「下克上」それは、闘いの一端にしか過ぎない。次の闘いが、僕らを待っている。そうして、次の闘いでは、己が下克上されるかもしれない。選考会というシステムにおいて、常々起こることになるのだが、互いの研鑽が進むきっかけになったと今は考えている。

 

 決戦当日、”たま”は十分に力を発揮した。その年のPOPPINはまた勝利を収めることになった。来年の選考会が楽しみになった瞬間である。

youtu.be

 

 自分自身、下克上されたことは何度かある。
 それは、一般のダンスバトルのイベントでのことだ。負ければハラワタが煮えくりかえるほどの怒りと後悔を得る。しかし、選考会という場での下克上はそんなマイナスの気持ちをはらみつつも、次につながる何かではないかと思うのだ。

 そんなある意味、気持ちのいいものを与えてくれる選考会が自分の時になかったことが少し悔しいように思う。

 

 ”たま”たちは次の世代の執行部となり、新たなDef Fectの時代を創った。同年代たちが火花を散らしたからこそ、昨日の敵は今日の盟友となったのではないかと今では考えるのだ。

 

 これからも「下克上」は続いていくだろう。その中に様々な気持ちを含めながら…

 

 

 

 
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*1:じんべえは顔も老け顔で年齢も上のため、初対面では緊張して話されたり、萎縮されることが多かった。

The Origin Of Def Fect  ~Side story(1)I.D.C NIGHT~

 
 たくさんの反響があり、とても嬉しく思っています。
 閲覧者の方々、本当にありがとうございます。
 
 OB・OGの方からも連絡を頂き、懐かしい気持ちになりました。
 あの時に感じていたことを共有し合えたことは…本当に自分の財産になった。今度、みんなでお酒でも飲み交わしましょう(^^)
 
 たくさんの方から連絡を頂いて、ほんの少しだけ自分の昔話を書いてみたくなりました。印象深い出来事を少しだけ。
 もちろん、これも自分の独断と偏見になります。よろしければ、お付き合いください。現役の子たちも読んでくれているみたいなので、先輩たちの選手を少しだけお見せしたいと思います。時系列は様々に飛びます。
 
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 ここから書くのは、実話を元に多少、歪曲した話です。裏話にしておいた方がいい話もありますので、そういうことには触れません。また、イニシャルだと分かりづらいので、仮名で書いていきます。ご了承ください。
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Side Story~I.D.C NIGHT~

 2010年…Def Fectが創設され、様々な試みが各サークルで行われていた。
 前回の話にも出てきたように練習会を始め、バトルイベントもその一つである。
 そんな中、Tが主催し、継続して行われた「I.D.C NIGHT」は自分自身にとっても思い出深いイベントだ。

 

 国際医療福祉大学で開催される定期的なバトル。夏休み期間を利用し、1周間に1回のペースでバトルを行っていく。優勝者には、ポイントが与えられ、最後のファイナルにて、真の強者を決める熱い戦いだ。
 I.D.Cに新しい風を吹かせることを目的に、ストリート出身のダンサーや各大学のホープたちが集い、戦い合った。年齢制限は定められていなかったが*1、若い世代の大学生ダンサーにとって、自らを進化させていくための重要な機会となった。

 

 自分自身も1週間毎に福祉大へ出向き、見学・ジャッジ・鉄人も務めることが出来た。当時のTやスタッフの苦労は本当に計り知れない。しかし、それ相応の”成長”を見ることが出来たイベントでもあった。

 

 そんな「I.D.C NIGHT」のお話である。

 

 

1 臥薪嘗胆

 2010年9月17日。I.D.Cの合宿最中に開催された「I.D.C NIGHT」には、いつもと違う空気が流れていた。いつも開催しているバス停から”みつばち村”へ場所が変わったからか?いや、そうではない。
 バトルは恙無く進み、残すは決勝戦だけである。 

 I.D.C勢は、全員座り、決勝のバトル開始の合図を待っていた。テンションは高いように見える。しかし、その中にYが虫を噛み潰した顔でそこに座っているのが見えた。ジャッジ席に座っていた僕は、思うことはあったが、決勝戦の審判のため、深呼吸をして、心を落ち着かせた…

 

 クラブで開催されるダンスバトルはまだ少なく、開催されれば、常時ダンサーが60名以上参加することも多かった時代である。若手ダンサーたちは、自分たちでバトル練習を行い、そして、自らの経験値を貯めるために小さいながらもバトルイベントを主催した。
 そのような対面式で行われるバトルで、予選に上がることが難しい若手たちは貴重な機会を逃さぬように経験を得ていった。

 「I.D.C NIGHT」も同様に経験値と新しい風を入れることを目的にした企画だった。しかし、それは経験の場と共に、闘争の場所だったのである。”闘い”だからこそ、”勝敗”が着くからこそ、誰にも負けたくない。そして、それは自分自身の尊厳だけなく、サークルとしての誇りを纏っていた。

 

 Yが見つめるその決勝戦のカード。doocleで同年代のゆうすけ(仮名)、そして、もう一方は、ストリート出身でダンスを初めて1年にも満たないこうへい(仮名)だった。Yを含め3人はPOPPINを生業とするダンサーであり、自分たちのイベントで決勝戦に立てないことへの歯痒さ、そして、同世代が火花を散らす姿を見ることは、想像を絶する悔しさだっただろう。Yの目が鋭さを増し、燃え上がる闘志が揺らめいていた。

 

 決勝戦が終わり、ジャッジへアドバイスを聞く時間。*2
 その日は、合宿の合間ということでゆっくりした時間はなかったが…Yが自分の所へやってきた。その顔は険しく、JUDGEに対する不満を持っていたように思える。

 

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 Def Fectが組織として成立し、最初の新入生を迎えた。
 組織として未熟な部分は多かったが、以前よりも各大学の交流が増え、ライバル意識や仲間意識など様々な感情が芽生え始めた年代だった。初代の執行部が企画を運営していく中で、新入生同士の交流だけでなく、”次世代の育成”も行われていた。

 ”次世代の育成”と言うが、どちらかと言えば…ライバル意識の芽生えを与えることが先輩たちの仕事だったように感じる。仲間、ライバル、共に踊り合える最高の仲間を。そういったものが次世代の財産になるように考えていたからだ。

 しかしながら、それは次世代の原石たちを闘いの場へ放り込むことになる。僕らはそれを見ながら、誇らしく楽しみに感じながら、闘う姿を見ていたのだった。

 

 次世代の筆頭候補として、逸早く名乗りを上げたのは「Y」だった。
 1年生当時から多数のジャンルを経験し、イベントなどに積極的に参加する。音楽に対する”嗅覚”を持つ彼の吸収力はピカイチで様々なジャンルを踊ることが出来た。先輩からも同世代からも注目されるI.D.Cの新星だった。

 しかし、I.D.C NIGHTが開催される時期になると彼の思わぬ弱点が発覚していく。それは「基礎力のなさ」である。

 器用に踊ることが出来るが故に密度の濃い質の高いダンスをすることが出来なかったのである。多数ジャンルを踊る環境のため、基礎練習の時間がとらず、ダンスの土台が脆いものとなっていた。

 

 ダンス、スポーツ、物事すべてに「基本」「基礎」が存在している。それは先人たちによって積み重ねられた理論であり、「応用」をしていくための土台となる。しっかりとした土台があるからこそ、そこに大きな自分を乗せることが可能になる。

 彼の弱点は、その部分であった。まして、音楽に対する嗅覚が即座に身体を反応させてしまう。音が先行し、身体がついていかない。次のステップへ進むための壁は、「基礎力」をつけることが必要だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 「なぜ、俺は負けたのですか?」

 Yはこの時にI.D.Cの同輩に負けていた。

 僕はYにアドバイスをすると、合宿所を立ち去った。思い返してみると、彼の悔しい思いをしていた顔の方が覚えている。そのバトルの勝敗というよりも、どちらかと言えば、決勝という場に立てなかった自分に対して憤る雰囲気があった。

 

 I.D.C NIGHTのファイナルまで、残り僅かの日数となっていた。

 

 

2 日進月歩

 次世代たちのぶつかり合いの中で、ゆっくりと進む者がいた。doocleのゆうすけである。doocleのPOPPINという、その当時最も厳しい環境の中で育つ原石であった。

 

 入学してきた当時、「俺、ダンスしたいんすよ!」と意気揚々とdoocleに入部してきた。しかし、先輩たちからは「調子に乗っているんじゃないかな」と少し生意気に見られていたことを覚えている。

 しかし、彼の意欲は本物だった。入学当初から練習に参加し、じっくりと、ゆっくりと歩を進めた。先輩たちも個性溢れる、そして、何よりも厳しい環境の中、その心の内に闘志を秘めて。

 

 実際の話、僕自身は彼の心が掴めなかった。意欲もある、気も使える…そうであるが、暗闇の中の獣のような何か隠しているような部分があった。先輩だから、話せなかったことも多いと思う。ただ、彼にはそれ以上にもこれ以下にも自分たちに本心を晒してくれなかったのだと感じていた。*3

 

 厳しい練習の中で彼は自分に出来ることを確実に増やしていった。基礎練習の反復*4をすることで自分のダンス力を高めていった。

 

 彼の課題は「己のダンススタイル」を見つけることだった。
 同年代が次々に方向性を見つけていく中で、自分の”好きなもの”や”得意なもの”を発見していくことが当時の課題だった。悪しき風習かもしれないが、同年代は比較される。そんな中でYの一歩後ろに位置しているのでは?というのが彼の評価だった。

  しかし、”ダンスの土台”となる基礎力を高めていったことがI.D.C NIGHTのイベントでは炸裂する。若いダンスをしながらも、安定した力があった。元々、練習量や経験値においてはYに劣っていない。そういった結果を見せる要素は十分に揃っていたのである。

 彼もまたその闘いを経て、最後のファイナルに進む権利を掴んだのだった。

 

 

3 夜は短し歩けよ乙女

 男たちが火花を散らす中、このレースに参加する一人の女の子がいた。doocleのHIPHOPERのさおり(仮名)である。

 確かにYとゆうすけの同世代競争は注目されていた。それは他の原石たちが注目されなかった訳ではない。ただ、火花の散らす闘争の中に、火中の栗を拾いに行くものが現れるとは誰もが考えなかったのだ。

 

 ここで話が少しずれてしまうが、ダンスバトルの結果やコンテストの結果が「ダンス」のすべてではないことを言及しておく。評価されることだけがダンスではない。ただ、Def Fectが創設され、交流が深まる中で、そういった繋がりを意識したライバル関係や仲間としての大学生のダンスシーンの新たな要素として加わったのだと思う。

 未来を創る次世代たちが、どんな気持ちで、どんなことをしてくれるのか…非常に期待されていたからこそ、このような面白さが生まれたのだと思う。人と人が出会ったことによる化学反応。それは現在のDef Fectにおいても存在するダンス・人生の魅力だと筆者は考えている。*5

 

 さおりは入学当時は、おっとりしたタイプの女の子だった。
 初めて出会った時は、どこかオドオドしていて意思表示の弱い子だと感じたことを覚えている。実際に話をしてみると、そうでもない部分もたくさんあったが、その当時の彼女は自分のダンスに対して迷いがあったように思う。
 ”迷い”を払拭するために、先輩と一緒に練習したり、各イベントにも顔を出していた。今だからこそ言えるが、当時の先輩たちでそんな彼女をどうにか成長させてあげたいと何度か話し合いの場が設けられたことを覚えている。技術的なことではなく、精神的なことを進める何かを…そこまで大きな事件があった訳ではないが、今更ながら思い返すと彼女のことを考えていた先輩は多かったと思う。

 

 ”闘争の中に彼女を放り込むか?”

 何度か出た議題の一つだ。ライバル関係というのは、同性の方が感じやすい。Yやゆうすけに対抗心を燃やしてくれるだろうか?気になっていたポイントはそこだった。しかし、その部分は僕らではなく、彼女自身の心が決めることだった。

 

 さおりは、それまでのI.D.C NIGHTでは優勝という結果の残せなったものの、地道にポイントを稼ぎ、ファイナリストとなっていた。

 

 

4 目覚めの朝に鳥は鳴く

 2010年6月のD-1の開催直前。僕は後輩と一緒に出場者一覧のコピーを取りに家に向かっていた。その日のD-1の出場者は多く、また、たくさんのダンサーが集まったが、その中でも「誰が最短のD-1予選記録を作るのか」も注目される要素だった。*6

 Yやゆうすけ、さおりも参加していたが…最短でなくても2年生の6月なら、かなり早い記録になるだろうと意気込んでいた。

 

「そういやさ、ゆうすけってYと話ししたことあるの?仲がいいイメージないわ」
「話をしたことはあるみたいですよ。っていうより、かなり意識してるみたいです」
「えっ?意識してるの?そういうのないかと…」
「すごい意識してますよ、話してると絶対に負けたくないって言いますもん」

 自分は知ることが出来なかったが、ライバル意識は持ってるようだ。思わずニヤけてしまう。彼とYの間にそんな関係が生まれているとは…

「さおりは何か言っていた?」
「うーん、でも、頑張りたいって言ってましたよ」

 その時のD-1では、3人とも予選を通過することは出来なかった。ただ、きっとどこかで相まみえるのだろうという予感がしていた…

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 I.D.C NIGHTファイナルの直前、doocleでは1・2年生D-1が開催されていた。当時、夏休みの練習成果を確認する意味合いで1・2年生によるD-1が開催されていた。*7下馬評では、ゆうすけが有力であり、さおりがどこまで行けるのかのが注目されていた。

 

 終わってみれば、優勝はゆうすけで、準優勝はさおりだった。ゆうすけは笑顔で喜び、そして、次の闘いへ向けて先輩たちのアドバイスを聞いていた。
(まぁこんなもんか…)
 と思いつつ、外に出てみるとさおりがうずくまって泣いていた。
 確かに結果は出た。しかし、彼女の涙は何に対してのものなのか?自分は測りかねていた部分があった。正直な話、彼女は一生懸命にやったのだから、それでいいのではないのかと。
 しかし、それ以上に考えることも彼女の中にあったのだろう。いつの間にか、彼女も闘争の中に身を置く一人となっていたことをその時に理解した。

 

 彼女は涙を拭くと、次の”機会”へ向けて、先輩方のもとへ歩いていった。
 自分も出来るアドバイスはすべてした。9月終わりの体育館は熱く、そして、静かに暗くなった。

 

 

5 震えるその手に

 2010年10月1日。I.D.C NIGHTファイナル。

 10月を迎えた大田原市は涼しさが増し、夏が終わったことを知らせていた。
 福祉大のバス停の中にはたくさんの人が集まり、そして、いつものI.D.C NIGHTとは違う空気となっていた。心地よい熱気とピリピリとしたやる気が伝わってくる。ファイナルとして、最高の雰囲気だ。

 ファイナリストたちは集結し、それぞれが目標やライバルなどを見据え、和やかな空気ながらも、どこか既に闘いが始まっているような空気があった。

 

 僕自身はジャッジとして参加し、このイベントに関われたことを非常に嬉しく思った。ストリートの先輩方もジャッジとして到着し、闘いの火蓋は切って落とされたのだった。

 

 バトルが始まると、熱気と殺気にバス停の中は包まれた。
 筆舌に尽くし難いダンスバトルばかりである。勝敗について迷うことばかりだった。

 そんなバトルの中、目の色が違う男がいた。Yである。今までで最高のダンスであったと思う。ジャッジ席まで伝わってくる意気込み。思い。個人としての気持ちだけではなく、そこにはI.D.Cとして背負うものがあった。当時2年生、部長でも執行部でもない。そんな人間がサークルに対して、ダンスに対してこれほどまでの気迫を持つのかと驚いた。Yは順当に勝ち進んでいった。

 

 ゆうすけはそんなバトルの中、少し調子を崩しているように見えた。直前に開催されたD-1の優勝という結果が彼の枷になったのかもしれない。

 それは決して慢心ではない、それは成長過程におきる心の不安定さだった。なぜ、そこで…それは彼の次の機会へステップだろう。しかし、今はそれすら負ける要素になる。

 D-1で優勝したダンスをしても、I.D.C NIGHTでは優勝することが出来ないのだ。ダンスにおける精神の安定は、どのダンサーにおいても重要なこと。若い彼であれば、重圧やライバルの対抗心の中で、その調整していくことは難しいことだろう。踊っている最中、彼の顔が少し辛そうに見えた。

 勝敗が決した時、悔しさに顔を歪めながら、彼はゆっくりと後ろに下がった。

 

 さおりは尻上がりに調子を上げていた。バトルをする度に上手になる。闘いの場ですら楽しんでいるような雰囲気をまとっていた。イベントの最中に成長している。

 彼女が準決勝を終えた時、会場からはため息が漏れた。

 

 I.D.C NGHT決勝。I.D.C vs doocle。POPPIN vs HIPHOP
 決勝前、Yは頬を叩き、後ろにはI.D.C勢が応援に立った。さおりは、靴紐を結び直し、Yをゆっくりと見定めた。一ヶ月に及ぶ死闘の勝者が決まる。それだけでこの会場で注目され、吐く息ですら見えるような空間が広がっていた。

 

 音楽が流れ、バトルが開始された。ゆっくりと互いに、目線を合わせる。語られる言葉がないが、目がすべてを伝えてくれる。
 ゆっくりとしたやり取りの中で、先手を取ったのはYだった。気迫が伝わってくる。後ろにいる者たちを背負い、そして、気持ちを込めていく。出来る限りの自分だっただろう。返すさおりも、それに応え、音楽を身体に入れていく。一進一退の攻防だ。

 

 しかし、その瞬間はやってきてしまう。2ムーブ目、Yの動きが変化してしまった。
 それは疲れ、身体の不調から来るものではない。気持ちの影響。
(絶対に負けない)
 その闘志が身体と心を引き剥がした。わずかではあるが…気負った。音楽に対して身体が先行している。崩れたものを再構成すること、それは難しい行為だった。
 さおりの2ムーブ目。流れが途切れないそのムーブ。気持ちだけではない、身体も修練を積んだ証拠だ。そして、彼女は自分のため、そして、”音楽”と共にそこにいた。

 

 バトルが終わり、外でのジャッジでの話し合い。総意は既に出ていた。
 中に入り、二人を見る。ジャッジをしなければならなかったのが、心苦しかった。
 中にいるすべての人を顔を見た。それぞれが神妙な面持ちだったことを覚えている。

 二人の手を握り、ドラムロールを待つ。
 二人の手は汗で濡れていた。Yの手を握ると、少し震えていたように感じた。ジャッジとして手をにぎる瞬間は、この時が初めてだったから…戦った二人に悟られないように平静に努めた。

 合図と共に、手を強く握り、右手を上へ掲げる。
 左手も一緒に挙げてしまいたかった。しかし、勝敗は決し、その中に輝きもあった。だからこそ、その輝きを汚してはならないのだと思う。

 

 会場は歓声に包まれ、勝者は声をあげる。敗者は事実はうずくまり、顔を伏せた。
 一ヶ月に及ぶ闘いは終わり、ここから新たな道が始まったのだった。

 

6 誰がために鐘は鳴る

 今、あの時を思い返してみると…濃密な時間を過ごしたものだと懐かしく思う。
 その時の勝敗は今でも妥当であったと思うし、自分自身の采配についても納得している。勝敗を分けたものはなんだったのか?それは技術ではなく、心ではないかと。

 

 あの時、男たちは”誇り”を守る闘いをしていた。それは勝負によっては大切な因子の一つだ。しかし、彼女は自分のために踊っていたのではないかと。

 これは、「サークル愛がないほうが勝負の時に有利だ」とか「ライバルがいない方がいい」という話ではない。2年生として様々な誇りをかけたYとゆうすけ。あの時期にしては、そういった背負うものは少し早かったかもしれないと思う。もし、あの闘いが半年後や一年後に開催されていた企画なら、結果は全く違うものになったかもしれないということだ。

 彼女は決勝戦、自分を信じた。自分の出来る限りのことをした。シンプルなことだが、人間にとって、それは最も難しいことかもしれない。自分を信じること、自分が歩んだ道に後悔をしないこと。迷いを持つ人間なら誰しもそういったことに対して躊躇を持つから。それが出来た瞬間だったから、あの時に勝利を得たのだ。

 

 その後、3人は良きライバル関係となった。

 執行部となり中心メンバーになっても、それは変わらずたくさんのことを後輩たちに伝えてくれた。ダンスも日々成長し、様々なイベントで活躍を果たした。栃木県において、旋風を巻き起こした世代となったと思う。

 

 彼らがバトルイベントで活躍する度に、僕はまたあの時の闘いの続きが見られるのではないかと楽しみにしていた。いつから始まったのか…その出来いと絆は、続いていくのだろう。

 

 I.D.C NGHTは翌年も開催され、更なる盛り上がりを見せた。その話は別の機会に。

 あのバス停は、自分の大学ではないが、非常に思い出深い場所だ。練習したことも、そこであった闘いも自分の大切な思い出だ。

 

 本当にただの昔話ではあるが、そこに先輩たちの青春があった。現在のDef Fectでもそんなライバル関係があるだろう。きっとこれからもそんな闘いは続き、そして、その中で様々な成長がなされていく…

 あの動乱の時代にあったものが今でも輝きとして残っていることを自分は誇りに感じる。

 

 

 
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*1:暗黙の了解であった

*2:I.D.C NIGHTのいい所、通常のバトルでは話を聞く時間は少ないが、このイベントではじっくりゆっくり朝までダンスについて語り合った。

*3:実際に話をしっかり出来たのは、時間が大分過ぎてからで…出会って1年以上経過したのに、彼が酒を飲めないことを知らなかった。

*4:今でも笑い話になるが、7時間アイソレ・ヒットをさせて、「じんべえさん、天井からなんか降ってきて死んでくれないかな?」と思ったらしい

*5:筆者自体は同年代が大学内にいなかったため、このあたりがとても気になる人。同じ年齢で、同じような経験の仲間と切磋琢磨してみたかった気持ちが強い。

*6:その当時の最短記録は1年生の2月の予選突破を果たしたdoocleのM(ダンスを始めて11ヶ月)。

*7:後輩たちにとっては、自分の成長度合いの結果を知ることが出来る機会だった。

The Origin of Def Fect(3)追記 動画まとめ

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過去のYouTubeの動画

(2012年)栃木vs群馬・再生リスト

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(2013年)栃木vs群馬・再生リスト

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(2015年7月12日)栃木vs群馬・栃木選考会・再生リスト

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(2014)D-splay・再生リスト

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(2010,2,21)D-1・再生リスト

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(2013年5月25日)HIGH CRASS・再生リスト

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(2012年3月24日)舞闘会はじめました・再生リスト

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(2012年7月7日)舞闘会はじめました・再生リスト

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※ちょっとしたサイドストーリー

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The Origin Of Def Fect(2)

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8 Imagination means nothing without doing

行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。)
 
 前の項では時系列が少しずれてしまったが…
 
 練習会をきっかけに交流すること・刺激し合える環境が必要ではないかとTと僕は考えていた。僕自身はYと出会ったことで、どうやってこの環境を構築するかという視点が出来ていたのだった。
 
「POPPINだけでなく、他のジャンルも含め、大学生同士のやり取りを作れる場所や機会があったほうが面白い」
 
 Tはさっそくmixi内にコミニティを作り、以前に存在しなかった交流出来る場所を確保してくれた。もちろん、これには様々な反応があったが、大学生のダンサー同士が交流する場所はなかったため、賛否が出るのは当たり前のことだった。
 
 交流が盛んになれば、様々な妄想が広がっていく。
「みんなで飲み会をしたい」
「今度はHIPHOPの練習会をしたい」
「合宿してみたい」
 楽しい時間をたくさんの人たちと共有したい。そして、刺激し合って、ダンスを楽しくしていく…そのためには組織化し、しっかりと運営出来る状態にした方がいいように感じた。
 
 時期は3月。T、M、そして、じんべえはララスクエアの前で話し合いをした。自分たちで決めるようなことではないが、先を見据えた何かをしたかった。
  • 三大学の大きなストリートダンスサークルの部長を中心とした組織を構築する
  • 大学生だけではなく、ストリートのダンサー(専門学校生など)*1を含める
  • 自分たちはアドバイザーとして、問題解決などに力を貸す
 上記が決められ、「栃木県ダンス連盟」*2という形で運営が始まることになった。
 
 あえてここで書きたいことが2つほどある。それは自分が見据えていたこと、そして、Mに対しての気持ちである。
 
=自分自身が見据えた未来=
 実際に僕が見据えていたのは「刺激し合える場」だけではなかった。栃木県のダンサーレベルの均一化である。
 
 栄者必衰の理をあらわす…世の中は常に変化し、そして、栄えていたものもいづれ衰えていく。大学生にとって”4年間”という短い期間がダンスに関わる期間である。どんな人も卒業し、次の年には新入生が入学してくる。才能に溢れたものも、どんなにダンスが上手い人でも。
 そんな中で3つの大学が協力し合えば、大きな情報量を共有することが可能になる。単一の大学では少なかった練習方法や過去のデータをリンクし合うことで大きな量にしていきたかった。
 
 これは自分自身が「最低の時間で最高の密度の高い練習・上達方法」を常に求め、たくさんの情報が必要としたからだ。先輩たちに向き合うために得た術を、なんらかの形で残したかった。そして、力を求める者に自分のようになってほしくなかったから。
 
 他大学に教え、そうして、得た情報は自分の大学だけでなく、伝達されていく。そうした行動をすることで卒業・入学というサイクルに一石を投じたかったからに他ならない。
 このためには、自分自身はこの場所に5年いること*3、そして、本気で教えることが必要不可欠だった。5年という歳月を社会人になっても、ここに残る。その時に決断した。まぁ4年しかいることが出来なかったが…
 他の大学であっても、自分自身がしたアドバイスや指導はすべて本気でしている。人として当たり前の行為かもしれないが、情報の秘匿は一切行っていない。
 
 情報が豊かになれば、ダンサーの練習が向上し、そして、レベルの均一化がはかられる。人がいなくなっても、受け継がれる者がいるからだ。これは各所で現在も目に見えるものではないかと考えている。*4
 
=Mへの気持ち=
 この設立当時の話をするとMはいつも「自分は2人に乗っただけですよ」と謙遜する。しかし、僕自身はMがいてくれたこそ、Def Fectが創設し、ここまでやってこれたと思う。
 
 実際、”組織化”という形は、本当に様々な賛否両論が巻き起こった話で、各サークルOBOGに呼ばれ、頭を下げたことも多々ある。それはもちろん先輩方だけでなく、当時のサークルメンバーからも賛否があったのだ。しかし、そういったものを調整し、後輩たちを温かく見守ったMだからこそ、組織として上手くいったと思う。
 EXAの子たちは純粋だ。打算がない子が多かった。興味を持ったことに臆せずに質問してくる。そういった気風を作り上げたのもMの”純粋なダンスを楽しむ心”があったこそだと考えている。
 本当に感謝したい。ありがとう。
 
 
  創設当時、Tは「Passionnate」(情熱家)、Mは「Balancer」(調整者)であったと自分の中で認識している。自分自身は「Intellectual」(知識を有する者)と言うべか。偶然なのか、必然なのか…新しい物事を始める際に必要な3人が揃い、噛み合った結果がそこにあった。もちろん、ここでは割愛させて頂くが、他にも偉大な先輩方がいたことを覚えておいてほしい。
 
 ”組織化”するための枠組みを整った。そして、僕らには追い風も吹いていた。
 
 
 

9 Hoist your sail when the wind is fair. 

(順風のときに帆をあげよ)
 
 当時の各サークルの部長に協力のお願いをし、初代のDef Fect連盟長や執行部が決まった。初代の部長たちは懐の大きな者たちだった。自分のサークル以外での活動となり負担も増える。しかし、そういったことを乗り越えていける大きな器の持ち主だった。
 
 また、クラブシーン側からもアプローチがあった。現在の「栃木vs群馬」の打診である。これはとても嬉しい話で形だけ組織となっていたDef Fectに命や心を吹き込むための大切な節目となった。
 
 クラブシーンで現在も北関東で活躍するKさんからの打診である。クラブ・イベント側とつながり、そして、学生たちも協力者たちが連盟を盛り上げる。そうした形が設立当時に出来上がった。
 急務となったのは、連盟の名前。様々なものが挙げられたが、「Def Fect」という名前が採用され、初めて開催されることになった「栃木vs群馬」のために旗などが作られた。
 
 Def Fectとつながることとなった群馬大学ダンス連盟「Make a Chin」は、その当時で10年の歴史を誇るダンス連盟であった。参考にすべき点、また、連携方法や交流の仕方など様々な点で勉強させて頂いた。イベント開催後は、何度か群馬へ足を運ぶことになった。
 
 ちなみに第1回の「栃木vs群馬」には、Free Style 5on5という形で出場させて頂いた。メンバー4人がPOPPINという異色な構成。
 初回の開催、組織として未熟な部分があったため、様々な事情があり、このような構成となった。T、じんべえを含め、I.D.CのY、T、doocleの4年生だったMなど本当に楽しませてもらったことを覚えている。急遽、本番前に集まりルーティーンを確認する。そして、悪ふざけ半分・本気半分で挑んだダンスバトルはなんとか勝利することが出来た。
 
 この時のイベントにおいて、初めて「栃木」「Def Fect」という集団が一体となった。応援、熱狂、団体戦…他のイベントでは感じることが出来なかった一体感。そして、次へ向けての目標などバラバラだった心が同じ方向を向き、全員が組織して動ける志を持つことが出来るようになった。

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(当時のFreestyle Crew Battleで取った写真)

 
 その後、栃木のダンスシーンにおいて、”学生”としてのダンスシーンが意識されるようになった。年齢別のダンスバトル、ショーケースイベント等…東京に比べ人数が少ない地方において、学生が盛り上がることで地域全体のダンスシーンへ影響を与えるようになっていた。
 

www.youtube.com

(時期は飛んでしまうが、当時開催された若手向けのダンスイベント:再生リスト)

 
 そんな順風な新生「Def Fect」を横目に、自分には数々の問題があった。
 最初に書いたDefectな自分では、何も出来なかったと思う。それを払拭し、きっかけを与えてくれたのは、doocleの後輩たちだった。
 
 
 

10 The best way to find out if you can trust somebody is to trust them.

(誰かを信頼できるかを試すのに一番良い方法は、彼らを信頼してみることだ)

 

 ”なぜ、自分の力がないのか?なぜ、力があることが優先させるのか?信頼は力なのか?”

(じんべえの日記から抜粋)

 本当に自分は”欠陥品”だった。

 「認めてくれた」という何の根拠もない自分勝手な理由が自分を「認めてくれない」という者を捨てさせた。I.D.Cとの交流や他大学との時間、そして、自分の練習時間…あの時、一切宇都宮大学への練習へ行かなくなった。

 

 他人から認めてもらったという自負は、自分の本来いるべき場所すら捨てさせたのだった。上辺では取り繕っていたが、周りから見たら、明らかだったと思う。doocleの先輩、後輩、同輩…そして、居場所を捨てていた。

 

 元々先輩には嫉妬心がある。それに懐く後輩たちも自分にとっては、疎ましい存在となっていた。

 

「じんべえさんってI.D.Cの先輩でしたっけ?」

 doocleの後輩から言われた言葉である。今考えてみると、恐ろしい皮肉である。そんなことを言われても、「はっはっは。違うでしょ、何いってんの?笑」くらいの受け取り方しかしていなかった。

 

 自分には後輩たちがいた。最も信頼してほしかった後輩たちが…自分が3年生*5の時に入学してきた1年生たちである。自分が入学してきた時に頼れる3年生の先輩方に憧れたように…

 

 1年生が入ってきた時に、何かが出来ることは?と考えて、しっかりとPOPPINを教えた。1年生よりも早く体育館にきて、教えることを予習してから教える。その行為は自分にとってプラスとなるが、その根っこにあったものは、信頼がほしいという気持ちだったように思える。

 

 「そこまでしたなら…」そう言う身勝手な考えが浮かび、勝手に期待し、勝手に失望する。先輩たちの方が懐いているような気がして、ひどく嫉妬した。

 

 その1年生は”BABAB”という3人だった。
 3人は純粋にダンスを楽しみ、葛藤しながらも成長していった。

 

 BABABが2年生の時に落ち込んでいた時があった。
 精神がおかしくなっていた自分でも、何か力になりたいと…それは邪な心だった。

 

 ある時、ストリートの先輩にその心の内を話をした。

「自分は彼らの力になりたい」

 そして、先輩は激怒し、こういった。

「お前の身勝手で、捨てて、そうして、捨てた関係をなしにするのか!?呆れるほど汚いやり方だな!」

 表面上は取り繕って話をしたつもりだったが、すべて見抜かれていた。自分では気がつかないようにしていた身勝手な考えを、すべて射抜かれ、釘を打ち込まれたような衝撃だった。

 

 POPPIN練習会の準備が進む3月。僕は彼らと話すことにした。
 自分勝手な話だ。それでも、3人に断罪してもらいたいと思った。

 

 BABABとご飯を食べに”まるまつ”へ。
 和やかな話から来年度の運営の話になる。BABABも執行部になる日が近い。
 そんな中、3人の気持ちを聞いてみた。

「協力したいと思っている。3人は俺に対してどう思っている?」

 

 3人は静かになり、一瞬黙った。そして
「あなたは身勝手な人だ」と一人は僕に言った。
「あなたは逃げた。そんな人を信用出来るのか」と一人は僕を罵倒した。
「あなたはそんな人ではなかったはずだ」と一人は僕を窘めた。

 

 詳しくは上手く書くことが出来ないのだが、信じたくても信じれないという話だった。本気で申し訳ないと思った。そして、自分の身勝手な心を後輩たちは分かっていて、本音を話してくれていることが分かった。

 

 勝手に先輩面をして、勝手に思い描いて、勝手に失望していた。3人は自分の良い面も見てくれていた。そして、悪い所もすべて見ていてくれた。

 「認める」「認めない」そんな話じゃなかった…視界にすら入っていないと思っていたが、視界には入っていた。自分は勝手に殻に閉じこもっていただけだった。

 

「これから頑張る、信じてもらえるように頑張る」

 

 それしか言うことが出来なかった。ただ、本音で話すことが出来て少しだけ嬉しかった。大学に戻る時に「これからっすよ、これから」と3人は笑った。

 

 自分が呆れていなかったことが唯一の救いだった。これから信用を積む。そして、実感したのは、自分自身は矮小な人間で、そうして、先輩の器ではないということ。上からの目線ではなく、人間として同じ目線で在りたいということ。

 

 Def Fectにとって関係ないような話に感じるかもしれない。ただ、この体験があったからこそ、後輩たちと同じ目線で感じることを意識し、そうしてDef Fectで様々なアドバイスをすることが出来たと考えている。

 

 doocleだけじゃない、様々な大学の後輩が出来るのだ。

”同じ人間として信頼され、ちょっと時間を多くダンスに関わった人間としてアドバイスをしたい”

”みんな、良い面も悪い面も見てくれている。だからこそ、自分も偏った目ではなく、みんなのそういった面も見よう”

 自分の中のDef Fectで関わった後輩たちへの接する姿勢である。

 

 また、この時の経験からサークル運営に関して”自分のサークルに対しての接し方・関わり方”を学んだと考えている。

 創設当時から今ままで存在していることかもしれないが…交流が深まっていくにつれて、自分のサークルに対しての不満や不安が見えるようになる。世界が広がるということはそういうことでもあるから。

 しかしながら、自分を産んでくれた場所にはそれ相応の何か出来ることがあると僕は思う。それが何かをここに書くことが出来ないが、変化させることも誇りや愛がなければ出来ない。無関心でいること、接することを破棄することはしてはならない。

「暗いと不満を言うよりも、進んで明かりを点けましょう」

 それは覚悟や決意の必要が行為かもしれないが、きっと何かの大切な経験になると信じている。

 

 BABABの3人とは、その後、様々な経験を共有することが出来た。
 自分自身の眼が曇り、そして、見えなかったものも見えるようになった。笑い合える関係になったと信じている。あの一件で、自分の欠陥は少し改善したのかもしれない。

 

 Def Fectに関わり、創設に手を貸した自分だが、それは「素晴らしいことをしよう!」という気持ちだけではなかったように思える。自分自身のある意味汚い部分から生まれた打算、そして、劣等感などにそこにはあったように思える。

 結果としてそれは、大きなうねりとなり、たくさんの笑顔を産んだかもしれないが、その根底にあるものを思い返すと、自分自身はただの小さな人間でしかなかったのではないかと感じるのだ。

 BABABはその後、「栃木vs群馬」やコンテストなどで様々な影響をDef Fectに与えた。doocle poppersとしての活動も続け、たくさん後輩たちの目標やライバルになったと感じている。

 

 余談となってしまうが…自分自身も「よく見ると二十歳」というチームを編成することがあった。各大学のPOPPINの20歳を集め、一緒にショーをした。元々、3大学でやっていたチームは少なく、そんな中でパワー・野心溢れる同世代を集めることの機会は中々存在しなかった。

 

 そこでつながった世代がさらに大きく躍動していくのだが、自分の中でBABABとの一件がなければ、すべての大学の後輩たちにこのように接することが出来たか分からない。自分の中ではターニングポイントとなった事件であったと考えている。

 

 

12 When we go into that new project, we believe in it all the way. 

(新しいプロジェクトをひとたびやると決めたら、とことん信じ込むんだ)

 

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(当時のDef Fect合同練習会の写真)

 創設時に開催を予定されていた練習会も恙無く行われ、様々な練習方法や情報のやり取りが始まった。当たり前のだが、新設された組織のため、ゆっくりとした進行速度で融け合うように色々な要素が混じりあっていった。

 上手く行かなったこともたくさんある。しかし、そういった中でDef Fectとして、また、大学ごとの変革も数多くあった。

 

 創設から2年目。栃木県最強のダンサーを決める闘いD-splayが開催され、ダンスバトル熱が加速した。各大学に実力あるダンサーが増え、火花を散らし、互いを高め合いました。自分はBattle DJとして参加させてもらった。

 創設から3年目。EXAでは練習時間のフリーサークルが取り入れられ、様々な意見が飛び交った。当時の部長SがDef Fectやダンスバトルイベントの様子を見て、導入を決めたようだ。現在も残っている伝統だと思われる。

 創設から4年目。連盟長が茨城に出向き、現在の「Re:ism」の枠組みを作った。

 

 その後、自分は諸事情により故郷に戻ることになってしまったが…動画や後輩たちからの連絡から状況を伺っている。

 

 Def Fectとして組織が成熟していくにつれて、各サークルも影響しながら化学反応が続いていった。創設当時から”意識改革”など様々な課題があったが、そういった化学反応の中で解決すやすくなったことも多いではないだろうか。

 

  "変革”に対して、適応し、そして、新たな可能性を模索する方々も数多くいた。そういった影の主役たちも大勢存在している。

 

 

13 Without friends no one would choose to live, though he had all other goods.

(友人がいなければ、誰も生きることを選ばないだろう。たとえ、他のあらゆるものが手に入っても)

 

 あまりに量が多くなるので、書くことが出来ないが、創設した当時から今まで尽力を尽くした方々は大勢いらっしゃる。

 現在、DJとして活躍するEXA・OBのKやI.D.C・OBのTなんかも立役者だと思うし、協力してくださったストリートの方々も大勢存在している。自分と一人一人関わってくれた人たちすべてのエピソードを交えれば、歴史書一冊を作れるくらいだ。

 

 今更だが、

「果たしてDef Fectを創設したこと、そういった流れを作ったことは、本当によかったのか?」と疑問に思う時があった。

 良かったことばかりではないから。やはり、自分の作ったうねりのせいで楽しくダンスを出来なかった人もいると感じるから。

 

 この投稿記事の構想のきっかけとして…3月に宇都宮に行った際にあるI.D.CのOBの人と再会したことが挙げられる。創設当時、頭を下げにいった人だ。

 

 再会し、その時の話になった時に…

「こんな楽しい場が今あるなら、Def Fectが出来てよかったんじゃないの?」

とおっしゃった。その時に自分の中にあった疑問が氷解したような気がした。

 

 様々な心が受け継がれ、7年目。

 継った心は…”人間らしいもの”であると感じている。人間らしい心…それは、美しく清いものだけはないと自分は考えている。

 

 誰しも感じる嫉妬、誰しも思う嫌悪感、他者が存在してこその劣等感、そして、みんなでダンスをする一体感、仲間との友情、絆、誇り。そういったすべてのモノが人間らしさだと思う。

 困難に見舞われることもあるだろう。嬉しさで涙を流すこともあるだろう。
 悔しさで枕を濡らす時もあるだろう。仲間との思い出に笑顔になる時もあるだろう。

 そういったすべての気持ちを受け継いで、”ダンス”という共通の素晴らしい物事をしている。

 

 創設に関わった者として今、伝えたいことは…

 自分をすべて信じること。そして、仲間をすべて信じること。

 

 キレイ事に思える言葉だ。自分の醜い部分も、自分の清い部分も、他者の醜い部分も他者の素晴らしい部分もすべて信じ、認識し、そういった中で次の世代へバトンを綱がなければならない。

 今を生きる君たちが最も素晴らしく、そして、次の行動を決めることが出来る選択者である。

 

 今まで書いたように、自分は愚者だ。そんな愚者の感情に乗った心根のいい人達が創りあげたのはDef Fectかもしれない。しかし、もう僕達は過去の遺物だ。

 

 行動を選択し、そして、思い描く。次のモノを創造するのは現役たちの役目。だからこそ、自由に、大胆で、そして、自分を信じ、楽しくダンスをしてほしいと願う。

 

 Def Fectに関わり、自分自身は大きな出会い、そして、たくさんの経験をし、多くの後輩たちと踊ることが出来た。本当に感謝している。

 ”Defect”だった自分がこんなにも素晴らしい体験、出会いを得たなんて普通ありえないことなんだと思っている。

 OB・OGたちは苦労したこともあっただろう。しかし、そういったことを少しでも同じように経験することが出来た自分は本当に幸運な人間なんだと思った。また、会って酒でも飲み交わしたい。

 

 たくさんの経験をさせてくれたDef Fect。ここに書き尽くせないくらいたくさんの事件や経験をした。そして、その中で自分の価値観やダンスが変わっていった。

 そうした機会を作ってくれたすべての方々に感謝をしたい。ありがとう。

 

 これからの更なるDef Fectの発展を願って、この投稿記事の締めとさせて頂く。

  長文乱筆失礼致しました。読んでくれて、本当にありがとうございました。

 

 

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*1:当時、高校生のダンスのコミニティNew Jackや専門学校生も多く、それらも大きなまとまりとして情報共有をしたかった

*2:当時は大学生と枠ではなく、もっと広いコミニティを意識したため、”大学ダンス連盟”という名称ではなかった。当時の大学生以外の参加者として、現在ダンスでも活躍するNの存在が挙げられる。

*3:組織として成熟するであろう理論に基づいた年数

*4:おそらく現在動画を見るにI.D.CのPOPPINには俺からYに伝わり残ったものが多いと思う。

*5:doocleでは執行部が3年生である。

The Origin of Def Fect(1)

 こちらの記事は、以前にTwitterでアンケートを取りました「Def Fectに関わったこと」についての内容となります。
 栃木県内のストリートダンスサークル部員や周辺の大学生にむけての記事となります。また、そういった事項を知らない方でも読みやすいように書かせて頂きました。
 
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”Defcet 名詞:欠陥、欠点、弱点”
 
“Def Fect 名詞;栃木県学生ダンス連盟の名称。
(Def = かっこいい、素晴らしい・Fect = 影響を及ぼす、事象を発生させる。)
2つの意味を足した造語。
常に素晴らしい物事を生み出し、周りに波及されることの出来る団体になることを願って名付けられた。名付け親は、doocleのSである。                       
 
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 2010年に「組織」として正式発足した栃木県学生ダンス連盟”Def Fect”は、今年で7年目を迎えました。栃木県内に存在する大学のストリートダンスサークルが一丸となって活動し、他大学との交流やイベント開催などを実施しています。
 発足当時は80名弱ほどの人数でしたが、各大学サークルの人数の増加に伴って、現在ではさらに大きな団体となりました。
 

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(Def Fect発足当時のロゴ:mixiのコミニティロゴから引用)
 
 宇都宮大学「doocle」・白鴎大学「EXA」・国際医療福祉大学「I.D.C」…栃木県内に存在する大きなストリートダンスサークルが中心となっていますが、自治医科大学MORL、獨協医科大学、また、栃木県内のストリートダンサーも入り混じり、日々、進化し続ける団体となっています。
 
 活動内容も年を重ねるごとに多岐にわたり、群馬県大学生ダンス連盟Make a Chinとの合同イベントの開催や茨城県の大学生との交流イベントなど北関東を中心に様々なイベントで活躍しています。
 
 今から書いていくお話は…「Def Fect」が出来上がる前の話。そして、どうなって出来上がっていったのか?という誕生秘話です。ただし、この記事の視点は、その当時の全員の話を集約したものではなく、Def Fectに関わった「じんべえ」という一人のダンサーからのものです。
 
 この記事を書くために、当時のSNSにあったブログや自分のノートの日記10年分を再度読み返しました。過去の資料に目を通すと恥ずかしいことばかりで、顔から火が出そうです。ただ、積み重ねていった時間は、現在の自分自身を構築しています。
 
 栃木県を離れて3年。今更、こんなことを書いてもしょうがないのかもしれません。
 ただ、今でも聞くDef fectの話や青森県や他地域の大学生との交流の中で「自分自身の経験がもしかしたら、参考になるかもしれない」と感じ、記事の投稿を決意しました。生粋のストリートダンサーから見れば、甘えだらけの経験だったかもしれません。しかし、多くの人々との関わり、たくさんの経験を出来たことは、自分の財産でもあります。
 
 今から書く話は、ただの”昔話”。
 
 現役の子たちには関係ない話かもしれません。しかし、この記事は、”大学生”の時にダンスと出会い、そして、たくさんのことを得た人間の体験談です。何かあなたのヒントになることが埋もれているかもしれません。”Defcet”だらけだった”じんべえ”が、”Def Fect”に関わった体験談です。もし、よければ、目を通してみてください。
 
 
 

謝辞―記事投稿に関して―

 今回の記事の投稿・作成に関して、最初に国際医療福祉大学OB・T、白鴎大学OB・Mに深く感謝致します。あなた方がいてくれたおかげで、私は楽しいダンサー生活、そして、たくさんの素晴らしい後輩たちに出会うことが出来ました。故郷に戻り、こうやって人生を送ることが出来るのもあなた方のおかげです。本当にありがとうございました。
 
 次に今まで”Def Fcet”を通して、私を成長させてくれたすべての後輩たち、同輩、そして先輩方に感謝致します。ありがとうございました。また、踊りあえる日を楽しみにしています。
 
 そして、これからのDef Fectの更なる発展と、現役の子たちがいつでも笑顔でダンスを出来ること、そして、未来へつながる多くの経験を出来るを願って、本文に入らせて頂きます。

 ここから書く話の名前に関しては、すべて本名・ダンサーネームのイニシャルとさせて頂きます。
 
 
 

1 Name the greatest of all inventors. Accident.

(最も素晴らしい発明家は、「偶然」である。)
 
 2009年10月31日。栃木県宇都宮市で最も大きなクラブ「BASQ」。
 その日は、ダンスイベント「Vanilla」が開催されていた。当時、現在のように”ハロウィン”という行事がまだメジャーになる前だったが、”催し”として仮装コンテストが実施され、イベントは仮装した一般客で溢れかえっていた。
 
 10月の末日ということで、学生ダンサーたちは、それぞれの大学の学祭に向けて、練習を重ねる時期だった。そのため、いつもよりも学生ダンサーの数は少なく、フロアで踊る人も少なかった。
 
 時間が流れ、仮装コンテストも終わり、South HipHopが流れ始めた頃、ショーケースの出演者控室では、着替えをする者、話に花を咲かせる者…ダンサーたちが疲れを癒しながら、イベントの余韻を楽しんでいた。深夜3:00を過ぎ、「もう明日のことを考えて帰ろうか・・・」。そんな声も聞こえてくる。
 
 控え室に残っていた学生ダンサーは、その日のショーケースに出演した白鴎大学EXAのPOPPINチーム、国際医療福祉大学のFreestyleのコンビCとY、遊びにきていた”じんべえ”と国際医療福祉大学のTだった。
 男ばかりの若いダンサーが集まれば、必然的に”ダンス”の話になる。「あーだこーだ・・・」とざっくばらんに話をしながら、それぞれが「ダンスをもっと上手くなるためには?」を模索していた。
 
 「一回、POPPINの”練習会”やりません?、自分もやってみたいですし・・・」
 話が進んでいく中でTがそんな提案をした。
 「いいね、それ!」
 Cが呼応し、EXAのPOPPINチームの面々も賛同していく。一年生だったYも、どこかはニヤニヤとした笑顔になって、静かに頷いていた。
 (練習会の開催か・・・面白いかもしれない)
 自分自身もそんなことを考えながら、EXAのMと連絡先を交換した。
 
 具体案の調整は後日。”新しいこと”が始まる。
 この控え室で生まれた小さな練習会の話が後の大きなうねりとなっていくことをまだ私たちは知る由もなかった。
 
 
 

2 The pessimist complains about the wind

(悲観主義者は、風に恨み言を言う)
 
 ”じんべえ”がストリートダンスを始めて、4年の歳月が流れていた。1年生を棒に振り、2年生を慌ただしく過ごした。3年生ではジャンルリーダーも経験したが、何も残すことが出来なかった。
 
 ストリートダンスを始めたきっかけは、高校時代に付き合っていたダンサーの彼女の影響だった。「同じ世界を知りたい」そのために始めたダンスは、今や自分の生活の一部になっていた。
 当たり前のように体育館へ練習に向かい、ひたすら練習を繰り返す。熱中している訳ではなかった。何かしていなければ、押しつぶされそうな気持ちになるからだ。
 
 高校時代に部活に打ち込んだが、ケガのため、レギュラーになることが出来なかった。受験でも希望の大学に入学することは出来ず、1年生の時は隠れ浪人をする始末。そんな中でサークル活動を放棄した1年生のとき、同輩たちが学祭で踊る姿に感動したのだった。
 「先輩たちと同じようにかっこよく踊っている。自分もあんな風になりたい!」
 そんな気持ちで再開したダンスだったが、2年生から始めたような自分にとって、後輩を指導しつつ、自分自身の練習を繰り返す日々は楽しくも辛い時間だった。
 
 そして、何よりも先輩方に負けたくなかった。
 
 一つ上の先輩とは、昔から因縁があるように思える。昔から一つ上の先輩たちに何事も勝つことが出来なかった。「大学では負けたくない!」そう思いながら、ひたすらに練習を繰り返した。思い返すと、長いdoocleの歴史の中で最強メンバーが揃う世代である。そんな人たちを追い抜こうとするのだから、並大抵のことではない。
 
 サークルの楽しい合宿にも行かず、飲み会にも参加せず、すべてを練習に費やした。いや、費やした”つもり”だった。結局、実力もつかず、ただ自分を自分で追い詰めるだけの世界にいた。
 
 そんな中にいたら、心もおかしくなる。先輩だけでなく、後輩すら疎ましく感じた。自分ではなく、先輩を慕う後輩たちを。当たり前のことなのだが、何も気が付かず、そんな中でひたすらに力を求めた。
 
 そんな学生生活をしているうちに4年生となっていた。当時の学科抗争にも負け、ただ社会に出ることを待つだけの身となっていた。焦燥感が自分を襲う。うわ言のように「これでいいのか?これでいいのか?」と繰り返す。
 
 幻聴さえ、聞こえるようになった4年生の6月。
「先輩方に勝たなければ・・・社会に出ても負け犬のような気がする」
 そんな気持ちを自分の中に渦巻いていた。気持ちを払拭したくて、大学を休学し、”自分を取り戻す”ことを目標にした。単位も足りている、あとは卒業論文だけ…そんな状況である。卒業するよりも、その時は自分を取り戻すことの方が大切だった。
 
 ”自分を取り戻す”と書いたが、何をもってそれを成したと言えるのか?
 未だによくわかっていない。ノート1ページ分に”取り戻す”と書かれた日記は、今、見直すと気持ち悪いとしか感じない。
 
 こうして、嫉妬と焦燥感によって生まれた”じんべえ”は、足の爪が割れ、血がにじみ出る靴下を履きながら、練習を繰り返していくこととなる。
 
 
 

3 Before the world

(Def Fect誕生前の世界)
 
 第2次ダンスブーム*1と呼ばれる日本におけるダンスの再流行が始まり、栃木県にもその波が到来した。  
 
 栃木県においては、「SC Crew」という最古のチームがオールド・スクールを中心に活動し、現在の大御所のダンサーたちの先駆けになったと聞いている。*2
 
 その当時に「ストリートダンス」に興味持った諸先輩方から大学におけるダンス活動が始まった。聞いている話から推測するに栃木県のダンスサークルにおいて最も古い活動が始まったのはは白鴎大学のEXAであり、その後、宇都宮大学doocleが正式にサークルに認可されたようだ。国際医療福祉大学I.D.Cにおいては、ストリートダンスが始まりではなく、Jazzダンスのサークルから始まり、その後、ストリートダンスが加わる形で現在の形になっていった。その名残として「ハーモニーホール公演」が現在も続けられている。*3
 
 じんべえが1年生の当時、各大学にストリートダンスサークルが存在していたが、交流はほとんどなかった。どちらかと言えば、大学ごとのつながりよりもストリートダンサーとの関わりを大事にしており、doocleにおいては茨城大学や関東ダンス連盟シグマなど他地域との交流の方が盛んであった。クラブシーンとのつながりを大切にする気風があったように思える。
 
 当時のクラブイベントにおいて、I.D.CのLOCKINチームをショーケースで見たことがあった。自分の大学以外のLOCKINチームを見ることが初めてだった自分は驚き、先輩に他大学にダンスサークルがあるのかを訪ねてみた所、「あういう奴らもいるよ」くらいの軽い反応だった。
 
 YouTubeや情報ツールが現在よりも発達していなかった当時は、交流することよりも独自の自分たちのダンスを追求すること、また、サークルとしての特色を高めた時期であったように感じている。
 その後、ダンスバトルが開催されるようになった際に多少の交流や大学生ダンサーたちの顔見知りが増えていくのだったが、具体的な交流は存在しなかった。
 
 じんべえ自身も、2年生の時にストリートダンサーとの交流が始まり、その際に宇都宮駅という練習場所で埼玉の大学にかよっていたTやアメリカ活動中のT、そして、白鴎大学のSと出会った。大学生同士の交流であったが、本人たちはストリート仲間という意識の方が高かったように思える。
 
 
 

4 A wise man will make more opportunities than he finds.

(賢者はチャンスを見つけるよりも、みずからチャンスを創りだす)
 
 そんな状況であった時に、行動を開始した者がいた。Def Fectの創設者の一人となったI.D.CのOBのTである。Def Fect創設に関わることになったTだったが、その行動が大きな時代の流れになるとは思っていなかったんじゃないかな?
 
 ある日、じんべえが体育館に練習に行くと…見知らぬ男がLOCKINを踊っていた。doocleは茨城大学とのつながりもあったので、その時点では栃木県のダンサーではなく、茨城の誰かが遊びに来ていたのだと思っていた。
 次の日の練習に行ってもまた練習している…そして、次の週にもいる。
 
 うーん、茨城の大学生が頻繁にこんなに宇都宮にいるのだろうか?
 
 そんな疑問を抱えつつ、周りの話を聞いてみると、国際医療福祉大学のLOCKERであったことが分かった。ちなみにこの時点は本人とはあまり話が出来ておらず、その時点では「大田原市という場所に大学があったのか!」という驚きの方が強かった。*4
 
 そんな交流が始まった当時、夏休み終わりにあるイベントがあった。文星芸術大学で開催されたFreestyle 2on2 Dance  battleである。なんのきっかけで開催されたかは不明だったが、doocleの先輩たち、同輩、そして、I.D.CのPOPPIN、LOCKINのチームがこのバトルに参加した。
 学祭の企画として行われたもので、DJサークルの主催である。ジャッジもDJというある意味面白い企画だった。先輩の車に乗せられてその場所につくと見知らぬ男たちがダンスの練習をしている。Tも混ざり練習をしていた。
 「あんなに練習しているのだ。絶対に負けたくない。」
  ”夏休みの練習を終え、自分のレベルは上がっている、そう信じたい。先輩たちに勝つ!”そんな気持ちなので、とりあえず敵視していた。
 
 ダンスバトル自体の結果は準優勝。優勝は先輩と同輩のチームだった。
 自分自身に実力がついたのか…?それなりの結果を得たが、そんな疑問が自分の中に巡っていた。「勝てたはずでは?」そんな考えが堂々巡りし、なんだか落胆してしまった。
 
 そんな元気をなくした自分に声をかけたのが、Tだった。
「じんべえさんと話してみたいって思っていたんですよね。ダンスかっこいいじゃないですか!ちょっと飯食いに行きません??」
 それまで話をしたことがあまりなかった僕は少し驚いた。それと同時に嬉しかった。自分のことが少し認められたような気がして…
 
 様々な内面の葛藤があった自分にとって、”結果”を得ることが心の安らぎになると信じていた。しかし、それは狭い世界の自分の価値観だ。
 だが、そういった交流の中で他人から認めてもらえること、また、様々な意見や価値観を交わすことが大切だということを知ることが出来た経験だった。
 
 Tの行動のおかげで自分は新しい価値観を得て、そして、新世界へ進む切符を手に入れたのだった。
 
 
 

5  My life didn’t please me, so I created my life.

(私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したの)
 
 Tとの交流によって、国際医療福祉大学との距離が縮まった。そして、そんな中で自分の心の指針となったある後輩との出会いを果たすことになる。
 
 6月のことだった。Tに誘われ、I.D.Cが開催する新入生歓迎向けイベント「ユナイテッド」に遊びに行くことになった。じんべえ自身、他の大学のイベントに行くことは初めてのことで、自分のサークルと違う様々なショーケースが見れるとウキウキしていた。サークルの形式もダンスも全く異なるイベントである。なにか面白いことが出来るではと感じていた。
 
 道を迷いながら、遊びに行ってみると…想像していたよりも明るい世界がそこにあった。*5みんな笑顔で踊り、イベントを楽しんでいる。それになんだか、綺麗な世界だ。自分のいるサークルとは少し違うサークルのイメージを体感した。
 
 イベントが終わり、Tがある男をじんべえの前に連れてきた。
「こいつ、高校の時にもダンスしていて、見どころあるんすよ!」
「…どうも…Yっていいます…よろしく、く…おねがいします」
 ヒョロヒョロで1年生らしい弱々しい雰囲気であったが、なにか仕出かしそうな雰囲気を持つY。この出会いから長い付き合いになると思ってもみなかった。
 
 少し話が飛ぶが…後にPOPPINの指導や色々な経験をYに話すことになる。
 Yはその後、1年生ながら、様々なイベントに参加をし、また、色々な出会いやサークルに変革を加えていくパイオニアとなった。
 POPPINというものは、Yが一年生当時にI.D.Cではジャンルとして成立しておらず、また現在のサークルの指導形式は異なっていた。*6Yが部長となった際にPOPPINとしてのジャンルを確立し、その後、彼は指導形式の変更を行い、現在の形へ移行させた節目を作った人物である。
 
 Yとの出会いによって、僕の頭の中に「練習方法やダンス情報をどうやって共有していくか?」という新しい課題が生まれた。
 
 ストリートダンスの文化の側面として、「自分だけの何かを大事にする」という性質がある。これはとても大切なことであり、自分だけの技・魅力・考え方・心を持つことは非常に大きな武器となり、自分の宝になる。そういった気質の中で最低限の情報共有を得て、”個”としてのダンスの追求が重要となる。しかしながら、そういった追求をするためにもある程度の”知識”や”情報”は大切である。
 
 Tとの交流、Yとの出会いの中で、そういった情報共有をしていきたいという気持ちが自分の中に生まれた。これはある意味、ストリートダンスの気質とは相反する気持ちなのかもしれない。
 
 当時、その根幹になった自分の気持ちは「認めてくれた」という気持ちだったのかもしれない。それは”承認欲求”という幼い子どもが持つ気持ちだったかもしれない。しかし、そういった情報を共有したいという気持ちが後の自分につながってくるのだった。
 
 
 

6 I will prepare and some day my chance will come.

(準備しておこう。チャンスはいつか訪れるものだ)
 
 I.D.Cとの交流が始まった中、もう一人のキーマンとの出会いも生まれていた。白鴎大学OB・M、その人である。
 
 出会う前に、実は話の中でその存在は知っていた。
 
 一緒に練習した白鴎大学のSからは「やー、Mはじんべえさんと話したいと思いますよ 笑」。とあるストリートダンサーからは、「Mっていうboogaloo*7が好きな子いてさ、話したことある?」etc...
 
 話は聞いたことがあっても、姿は見えず。
 POPPINが好きな子がいることは分かるが、全く姿は分からない。ちなみにMの方も同様だったようで、話をしてみたいが、どんな人か分からないという状態だったらしい。
 
 ある夜、ララスクエア前の練習をしていた。Sも後ほど練習に来るそうで、一人でSを待っていた。携帯のメールの着信音が鳴る。
 
 ”少し遅れます(^^) Mが来るらしいので、話してみてください”
 ”えっ、どんな人?”
 ”見れば分かります(^^)大泉洋*8に似ています”
 
 無責任である。適当なメールのやり取りの中、大泉洋に似ているMを待つことになった。
 
 事前の話の中で、クラブイベントなどでニアミスしているようだったが、自分の記憶の中では”大泉洋”に似ている人は見かけたことがなかった。
 
 練習をしていると…後ろから満面の笑みの男が現れた。
「どうも」
 ニヤニヤしながら、こちらに近づいてくる。大泉洋?似ている気もするが、件のMは、こやつのことだろう。
 
 挨拶を交わしつつ、少し話をした。本当に少しの時間だったが…しかし、その中でダンスに対する情熱が伝わってきた。情熱というよりも純粋さが伝わってきた。
 「電車の関係でもう少ししたら、ここを去らねばならない」と彼は言ったが、話をしている中で少し踊ってみせてくれた。綺麗なboogalooである。
 
 (なるほど、噂通りなのか、いや、しかし…)
 boogaloo Styleの彼が自分と話をしたいという気持ちがよく分からなかった。*9同じStyle同士であれば、話もしたいだろう。しかし、違うStyleを追求するもの、水と油ほどの考え方の違いだ。
 
 これは彼が純粋にダンスを追求する心を持った人間だったからだ。自分と異なった異なった考え方であっても吸収したい。そして、自分のStyleも追求したい。ダンサーらしい強欲で、熱意のある彼だったこそ、至った行動だったように思える。
 純粋な彼だったからこそ素直に僕に話しかけ、そして、何かを奪いたいと考えただろう。そんな彼だからこそ、自分も何かを差し出せるないかと思った。
 
 後のダンスバトルにおいて、彼とは何度か刃を交えることになるの。また大切な出会いが生まれていたのだった。
  
 こうして、宇都宮大学doocle、国際医療福祉大学I.D.C、白鴎大学EXAの役者は揃った。話は冒頭に戻っていく。
 
 
 

7 It’s all about the journey, not the outcome.

(すべては過程だ。結果ではない)
 
 POPPIN練習会の準備は勧められ、宇都宮大学の体育館で開催された。ストリートのダンサーの先輩方の協力も得て、様々な人たちが体育館に集った。現在残っている資料によれば各大学から42名に参加し、様々な年代の人が一同に介した企画となった。
 
 POPPINの練習方法を得るよりも、これだけの多種多様な大学生が集まり交流出来たことの方が意味があったのではないかと思っている。
 余談ではあるが、当時、SNSを介して自治医科大学MORLとのつながりも出来、doocleの練習の見学に訪れるなど、じんべえ自身の出会いが広がった時期でもある。
「自分の大学だけではない、広い世界で様々な人がダンスをしている」
 当たり前のことかもしれないが、そういったことを実感することが出来た瞬間でもあった。
 
 この時期に開催されたものは、POPPIN練習会だけではなかった。
 doocle主催Freestyle Dance battle『D-1』である。元々は、ダンスバトルイベントの開催されたことを機に*10サークル内のダンスバトルの練習と意識向上を目指して、始めれた試みであった。”サークル内”と言いつつも、doocle自体が来るものを拒まずの体制だったため、数多くのストリートのダンサーが参加可能となっていた。
 こういった『D-1』の参加の呼びかけを行ったことで参加人数が増え、他大学からも多くの大学生が参加し、互いを高め合った。練習会で情報の共有を行い、そうして、D-1によって、他の学生の実力を確認しあったのである。これらの開催によって、一気に交流が波及していったと考えている。

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(当時のD-1のフライヤー各種:優勝者や活躍した人がモデルとなって絵が描かれる)

 
 ここで時期は少しずれてしまうのだが、2010年6月20日に開催されたD-1の映像のリンクを貼らせていただく。

youtu.be

(Def Fectが生まれて2ヶ月後に開催されたD-1:動画は全編となるため、長い)

様々なダンスバトルの機会は、参加者に実力や交流の中で自分の課題、そして、サークルへの”誇り”が高めていった。

 
”昨日は自分が負けたことも悔しいですが…なによりI.D.Cが負けたのが悔しい。
 本戦ではdoocle先輩後輩対決、BABAB対決、GANG☆STAR対決、doocle-EXA対決、いろいろあったけど…I.D.Cはない。こういう対決を見ていく度に悔しさが増してく… こんなんでいいのか。
みんなで頑張って鍛えなおして、次はI.D.C対決を実現させてやる。 ”
(当時のYの発言)
 
 他大学という自分と違う世界の住人たちは、多くのことを教えてくれる。価値観の相違、実力さ、そして、何より自分のサークルへの誇りを掘り起こしてくれる大切な要因となる。
 
 話の時期が飛んでしまうが、この年の4月からはTがオーガナイズする「I.D.C NIGHT」が国際医療福祉大学で開催され、たくさんの名勝負が生まれた。このイベントは定期開催され、ポイント制で決勝大会を競い合う今までになかった形のダンスバトル形式となった。各大学の同世代たちが刺激し合い、そして、競いあった。ライバル同士の戦いがさらにDef Fectとしての密度を高めていった。また、EXAにおいてもバトルイベントが開催され、刺激し合える環境が整っていった。
 
 POPPIN主体の話となっているが、LOCKIN練習会も頻繁に行われ、POPPIN練習会も様々な人が参加と記憶している。ジャンルごとの特色が出始め、POPPINは個人指導や飲み会、LOCKINでは練習会やWSへの参加、HIPHOPはチームを組むなどそのジャンルの特性にあった環境が構築されつつあった。
 
 
↓↓次の記事はこちら↓↓
 
↓↓じんべえのダンスの経歴↓↓
 

*1:「たけしの元気が出るテレビ」から始まったダンス甲子園などメディアにおいて、ダンスが取り上げられ、MC Hummerなど楽曲の流行した時期

*2:諸説あるが、これだけで栃木県のダンスの歴史を投稿記事に出来るほどの分量になるので、詳しくは割愛。

*3:この近辺の話は、各大学のOB・OGに聞いてみてください

*4:じんべえは青森から栃木へ進学したため、栃木県の地理情報に疎かった。

*5:宇都宮大学では昼の花がアメフト部、夜の蝶がdoocleと言われていた。華やかなイメージもあったが、いかついイメージもあるサークルだった。そこもかっこいい所なのだが。

*6:当時I.D.Cではすべてのジャンルを経験し、その後、中心となるジャンルを決める指導形式がとられていた。doocleも初期の段階ではそのようになっていた。これはサークル全体でショーケースを行う際に苦手ジャンルをなくすための形式であったが、その後、サークルの人数規模が大きくなり、だんだんと難しくなる。そのため、1年生からジャンルを決めて練習する形式に移っていく

*7:ROLLを基軸としたノリやスイングを大切にするStyle

*8:このメールのため、イメージが完全が大泉洋

*9:じんべえは生粋のAnimation Style

*10:REALTIMEというダンスイベントが2006年4月に開催され、そのバトルを意識して2006年6月に初開催された

僕の曲の集め方【ただのおっさんの戯言】

↓↓関連する記事はこちら↓↓

=僕の曲の集め方(2016年7月26日現在)=
【音楽に触れる】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【情報を集める その1】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【情報を集める その2】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【情報を集める その3】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【音楽を手に入れるその前に…】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【曲を手に入れる その1】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【曲を手に入れる その2】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【目的別のコツ その1】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【目的別のコツ その2】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【目的別のコツ その3】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…
【まとめ】http://jinbee-essays-in-idleness.hatenablog.com/…/music.col…

 

 ここからの書くことは、ただの思い出話ですので、曲の集め方に関する記事は上記をご覧ください。

おっさんの戯れ言

 大学に入学したら、「ダンス」に関わるサークルに入ろうと思っていた。

 当時の彼女が「ダンサー」で、自分も何か共有出来ることがほしかったから。そう考えていても、「ダンス」というカテゴリーにはたくさんのものがある。DJ、ラップなんかも関係するような気がしていたし、日本舞踊やよさこいサークルも大学にはあった。

 

 DJサークルの勧誘にも乗っかってみたけれど、なんだか合わないような気がして退散。”ストリートダンス”は敷居が高いような気がして、どうするか迷っていた。

 一足先に夢に向かった彼女がひどく羨ましく見えて、ケンカもしてしまった気がする。

 頭の中では、部屋で聞いたUsherのConfessionsがループしていて、ただその歌の意味もよく分からず、ただ焦りだけが自分の中にあった。

www.youtube.com

 

 学科の先輩に誘われて、ストリートダンスサークルに見学しにいった。

 本当に偶然の話で、学科の歓迎会であの人がいなければ立ち寄らなかったかもしれない。

 

 先輩はパッと見てだけだと「B系」と呼ばれる格好をしている人ばかりで多少怖かった。ちょうどその日は、新入生を歓迎するためのショーケースの合わせの日で、全員が集合して当日の打ち合わせを行っていた。

 見学をしたのは、その日は自分一人で、なぜか、合わせのよく見える位置で先輩たちに囲まれながら、先輩たちのショーケースを見た。

 

 大学に入学して、頭の中は彼女ばかりだったが…そんなことを忘れさせてくれるダンスのジャンルがそこにはあった。

「POPPIN」というらしい。4人の先輩方が踊る姿があまりにもかっこよくて、その時にこのサークルに入ろうと決めた。帰り道は、先輩たちが使っていたショーの曲が自分の頭の中に残って、久しぶりに楽しい気分で眠ることが出来た気がする。

 次の日まで、この曲の声が耳に響いていた。

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 その後、彼女に振られ、傷心したが…ダンスを続けようと思った。

 先輩方は、刺激的で、どの人もかっこよく見えた。

 プレッシャーや色々考えることがあったけれど、あの人たちがいてくれたから、今の自分があると思っている。

 

 ある先輩に「三ヶ月を過ぎたら、お前にダンスを教えない」と言われた。

 自分はとても戸惑った。どうして?教えてくれないのか?

 先輩はこう続けた。

 「三ヶ月過ぎたら、一緒にショーに出る。ショーに出たら、それは後輩ではなく、同じ”ダンサー”だ。一緒に高め合う仲になる。一方的に教えるのは、違くないか?」

 自分の頑張り次第で、この人は自分を対等に見てくれるのだ。

 始めたてで、いつサークルを辞めるかも分からない仮入部の一年生に、こんなことを言ってくれる人はいないと思った。コーンローの先輩が怖くなくなった瞬間だった。

 

 そんな先輩はCDをなかなか貸してくれなかった。

 でも、「お前が頑張るなら…」と1枚のCDを貸してくれた。パソコンでCD-Rを作って、何度も聞いた。傷つき、ダメになったら、またCD-Rを作る。

 同じCDで練習を繰り返し、毎週金曜日にはフリーサークル。

 このCD-Rは、もう4代目になった。このMix CDをずっと忘れることはないだろう。

  DJ BASTUさんのPOPBOX vol.3。

 

 時代が移り変わって、iPodになった。もう自転車で重いラジカセを運ぶこともない。

 CDがたくさん詰まった48枚収納出来るケースは、部屋の片隅においてある。持ち出すことも、もうないかもしれない。

 

 アナログで、今では理解されないかもしれないけれど、

 そうやって経験したこと、絆を持てた先輩たちのことを曲を探す時にいつも思い出す。

 

 800GBも曲のデータがあっても、自分の心に響くのは、1枚分のCDだけかもしれないと、少し寂しい気持ちになる。

 あの時に経験したことが、自分を自分でいさせてくれる経験だと思う。

 

 あなたには、思い出の曲ありますか?